桜はところによりもう満開である。しかし私はまだ五分咲きの並木の脇を歩いて、なんだか寂しい気持ちになったのだが、まだ花粉症が治まらず、再々花の下を歩くような機会も作れない。
なんだか急に思い立って、生意気なことを書き始めて、早速後悔しているのだけれども、それでも新潮文庫のことは一通り書いて置きたいと思う。
* * * * * * * * * *
要するに山本氏は「遠野物語拾遺」は『遠野物語』とは「同じでない」ことを認めているので、初版本の文庫化として、「拾遺」を始めとする郷土研究社版再版本で追加された要素を排除するという新版の方針に背馳しないものとして、再版本の説明を削除しただけでそのまま新版にもこの「解説」は活かされているのだが、それにしても新版には見事な迄に郷土研究社版再版本の情報が排除されており、山本氏の「解説」に「佐々木の草稿に氏の筆が加わっている『遠野物語拾遺』」とあるのが多分唯一の言及である(しかしこの書き方は再版本を前提にした書き方であって、他に「拾遺」について何の説明もないのは唐突かつ不親切である)。
それはともかく、私が人に新潮文庫新版を薦めたくないと思った理由の1つはこの「拾遺」削除で、柳田氏の「文体」で「感じたるまゝを書きたり」という正篇とはもちろん別物なのだが、山本氏「解説」の削除箇所にもあるように、「拾遺」は「柳田氏の執筆ではないとしても、その意図は十分の生かされていて、遠野郷の実態がいっそうわれわれに親しいものとなって来るのである。」という効果を上げている。格調高過ぎる正篇に比して、口語文で取っ付きやすい。初めて読む読者、とりわけ最近の古文の苦手な(そして現代文も怪しげな)若者は、まず「拾遺」から『遠野物語』の世界に入った方が良いのではないか。それに、ハマって来ると正篇の119話は如何にも少ない。もっと知りたいと思う。そのとき「拾遺」299話が後に控えているといろいろな楽しみ方が出来る。同じ話題のヴァリエーションも少なくない。そのとき、目次ではなく分類索引である「題目」を活用して、「山男」なり「まぼろし」なり、正篇と「拾遺」と共通する話題を拾い出して読み比べてみるのも面白い。もちろん、読み込んで行くと強烈な印象を残すのは間違いなく正篇の方だが、正篇のみ収録では裾野のないてっぺんにいるような、「拾遺」が収録された旧版に親しんだ身として、そんな不安感を覚えるのだ。
それは、慣れの問題だ、という人もあるかも知れない。文学作品として見たとき正篇と「拾遺」の差は歴然である。だから正篇(初版本)を尊重した編集というのも、ありだと思う。それに「拾遺」は競合する角川文庫版に収録されている。新潮文庫版の売行きが角川文庫版に比して振るわなかったのかどうか、それは知らないが、正篇尊重は一つの見識である。しかしそれは、あまりにも文学的な評価に偏した行き方ではないだろうか。奇談集としての側面から見たとき、「拾遺」の存在は決してマイナスではない。自然な情として「我々はより多くを聞かんことを切望」(「初版序文」)しているのだから。
もう1つの、私が新版を薦められないと思う理由だが、それは「解説」とは別に追加された吉本隆明「『遠野物語』の意味」(101〜132頁)である。(以下続稿)