瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』の文庫本(26)

・角川文庫1295(改版二十一版)(3)
 昨日の続き。一昨日の副題に「(改版二十一版)(1)」を補って置いた。
 本文の比較までは手が回らなかったが、2011年6月6日付(20)の最後に注意して置いた、「遠野物語拾遺」の「題目」の「前兆」に「しるなし」とのルビが、改版四十六版(73頁14行め)から新版(78頁1行め)にそのまま引き継がれていることについて、改版二十一版(71頁16行め)を見るに、やはり「しるなし」とルビがあるのである。
 それからやはり2011年6月6日付(20)で注意して置いた間取り図だが、改版四十六版では46頁と48頁に全頁、47頁4〜14行の上部20字分の合計3図あるが、改版二十一版は全頁の図は45頁と47頁、48頁4〜14行めの上部22字分、寸法は同じ。

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 191〜195頁「初版解説」は段落の頭が1字下げになっていない。最後、195頁1行め上部に小さく「  昭和十年盆の月夜」とあって、2〜3行めの下部に「折 口 信 夫  /三 礼 」とある。改版四十六版(195〜199頁)では、年記は199頁4行めに2行取りで入っている。
 ところでこの折口氏の「初版解説」というのは、新潮文庫2146の「後記」である。すなわち折口氏のこの文章は、2011年4月6日付(2)等で確認したように、昭和10年(1935)刊の郷土研究社版、すなわち角川文庫版の巻頭の柳田氏の2つの文章「初版序文」「再版覚え書き」のうちの「再版」に附された「後記」なのだから、明治43年(1910)の「初版」とは無関係である。ちなみに新潮文庫2146では巻頭は「初版序文」「再版覚書」で、新潮文庫4885には後者は存在せず前者にも「序文」などの見出しがない。それはともかく、だとすると折口氏のこの文章を「初版解説」と呼ぶのは可笑しいのではないか。1冊の本の中で「初版」の指示する内容が何の断りもなしにズレている。しかもこれが、新版(角川文庫13359)にもそのまま引き継がれているのである。そこでこの「初版解説」の「初版」の意味だが、新版の目次を見るに「 解説/  初版     折 口 信 夫 二一三/  改版     大 藤 時 彦 二一八/  新版     鶴 見 太 郎 二三九」となっているので、角川文庫版の「初版」だということが分かる。しかしながらこれはそもそも角川文庫のために書かれたものではない。恐らく昭和30年(1955)の角川文庫「初版」にこれを「解説」として収録し、その後、昭和44年(1969)の「改版」に当たって新たに大藤時彦「解説」を附すに際し、柳田氏の「初版序文」と齟齬を生じさせてしまうことに気付かないまま、無神経に「初版解説」と改めたのであろう。改版時のこの措置がまずかったのだと思うのだが、それでもせめて新版に際して「後記」に戻して置くべきだったと思うのである。
 196〜213頁が大藤時彦「解説」で、改版四十六版200〜217頁。これが改版に際して附されたものであることは右に引いた新版の目次により明白だが、2011年6月3日付(18)に引いた最後の段落(改版二十一版213頁7〜11行め・改版四十六版217頁14〜18行め)の記述からも窺われる。
 214〜226頁「年譜」は2段組、改版四十六版218〜230頁。末尾226頁下段5行め(改版四十六版230頁下段4行め)に(作成 鎌田久子)とある。若干のズレはあるものの、最後の頁の下段が「昭和三八年」のみであるところまで、ほぼ同じ位置に配置されている。(以下続稿)