ついで、吉本氏は「事実体」の説明を始める(106頁4〜109頁15)。
……。この事実体とはいってみれば『今昔物語』のような古典物語とまったくおなじではないが、古典物語の記述の仕方をしているものだ。これが七十何篇あるということは、大部分が古典物語とおなじ昔話を語る記述の仕方を採っているということだ。
吉本氏の定義はやはり恣意的で、私にはどうもよく分からない。吉本氏は「書かれている内容が必ずしも事実だという意味ではな」く、「あやふや」だったり「伝承」だったり「夢現のうち」のことであっても、「事実を記述するのとおなじような記述の仕方をしている意味だ」と、自分勝手な定義なのになんだか既存の権威あるもののように、「ものだ」「ことだ」「意味だ」と畳みかける。検証なしに決め付けている辺りに、私は「デリダによれば」の先輩と同じような危うさと、カッコ良さを覚える。こういう書き方に私などは抵抗を覚えるが、抵抗を覚えない人にはすんなりと、まさに「共同幻想」として受け容れられるのか知らんと思えてくる。
吉本氏は事実体の例として、『遠野物語』二と一一を引用する。
二は早池峯・六角牛・石神の遠野三山を「若き三人の女神」の「今も領したまふ」由来である。『遠野物語』の「題目」にも「神の始」としてあるように、「大昔」のことで、神話というべき内容である。吉本氏は『常陸国風土記』の「富士山と筑波山にまつわる説話」を「おなじような話」として引き合いに出したりするなどして、「これはもちろん事実でないことがはっきりした伝承・伝説」を「あたかも事実こういうことがあったというスタイル」を使って「記述している」のだとする。
しかし、この二は、「もちろん事実でないことがはっきりした伝承・伝説」なのだろうか。(以下続稿)