昨日、失踪当日について駒村氏がどのようなイメージを読者に抱かせようとしているか、そのためにどのような伏線を張っているか、をざっと確認してみようと思って始めてみたところ、いきなり先日見落としていた疑問点に引っ掛かり、そして地図で方角やら距離やらを確認するうちに、失踪当日の動きに関して、本書にはどうも、交通機関の利用という視点が欠けているような気がして来て、それで少々調子に乗ってあれこれ書いてしまったのです。が、急いては事を仕損ずる、で、肝心の「友人」宅の最寄り駅を間違える、という失態を犯してしまいました。そこで昨日の記事の、問題の箇所を削除し【追記】を添えて置きました。ごめんなさい。
と言う訳で、失踪当日の確認は後回しにして、まず、この交通機関について、見て置きたいと思って、少しメモして置きます。まさに瑣事で、かつ路面電車に馴染みがないので、どうも十分に把握出来ているとは言い難いのですが、そこは誰か東京市電に詳しい人が解明してくれることを期待して、素人が地図や路線図を眺めて気付く程度のことですが、少々述べておきます。
本書でも、鉄道はまず、藤牧氏の故郷館林と、東京をつなぐ存在として、注目されています。23頁に「東武鉄道伊勢崎線の館林駅開設は明治四十年」と特筆され、そして第2章「父のすべてを忘れない」の最後(44頁17行め〜45頁2行め)には、昭和2年(1927)5月に*1藤牧氏が故郷を後にする場面が、次のように描かれています。
荷物を持って館林駅に立った十六歳の義夫は、幼き日、巳之七といっしょに乗った東京行き/の列車に、こんどはひとりで乗りこんだ。そう多くない荷のなかには、完成したばかりの全/集・画集が大切にしまいこまれていたはずである。*2
館林から帝都にまっすぐのびる東武鉄道の終着点は、隅田川沿いに栄える江戸以来の繁華街/だった。
到着した先は、次のように描写されています(52頁15〜17行め)。
当時、東武鉄道伊勢崎線の浅草停車場は、江戸の昔から人々に「大川」の通称で親しまれた/隅田川の左岸にあった。現業平橋駅で、つまり館林から見れば大川の手前、東京市街のはずれ/であった。帝都の一大繁華街である浅草は、ゆったりとした青い流れの向こうだ。
以下「停車場にドックが併設されていた」当時の「浅草停車場」が「鉄路」と「水運」との「一大ターミナル」であったことが述べられ、続いて53頁8〜17行め、
あたりが江戸のなごりをとどめる水運の町であり、隅田川が帝都の物流の大動脈であること/を、義夫は肌で感じたはずだ。
余談ながら、隅田川を越えた浅草側に、現在の松屋デパートと一体型の駅舎ができるのは、/その四年後、昭和六(一九三一)のことである。
義夫が向かったのはあの
「日本橋浜町弐ノ十一番地」
である。*3
停車場からは、川沿いを下流に歩けばよかった。
いくつかの橋をすぎると、やがて大きな目印になる新大橋があらわれる。
深川方面からだと、橋を越えたすぐ右手に浜町公園を見つけられた。
としています。浅草駅(現、業平橋駅)の描写は良いと思うのですが、問題はその先です。改めて読んでみると、どうも引っ掛かるのです。駒村氏は業平橋から浜町まで歩いたことにして「川沿いを下流に歩けばよかった」と簡単に済ませていますが、直線距離でも3キロあります。かつ、この辺りの隅田川は、必ずしも川沿いに道がある訳でもありません。「そう多くない」にしても「荷物」を抱えていたであろう、都会に慣れている訳でもない少年の行動としては、少々不自然です。少なくとも、この少年を受け入れる側が歩いて来い、とは指示しないだろうと思うのです。もちろん、これは後の《隅田川両岸画巻》への伏線にしているのでしょうけど。
では、どうやって浜町まで来るように指示したのか、というと、市電でしょう。ネット上で参考になる、当時の市電(都電)関係の資料集としては、さっしいのホームページ「ぽこぺん」の「ぽこぺん都電館」*4が、最も充実しているようです。もちろん、次回紹介しますが当時の地図なども参照しました。もちろん当時の地図にもはっきり市電の線路は記載されています。
当時、藤牧氏が降り立った東武鉄道の浅草駅(現、業平橋駅)の前まで、市電業平線の支線が敷かれていました(この支線は東武鉄道の延伸に伴って廃止されたようです)。この「浅草駅(前)」停留所で市電に乗り、そのまま業平橋から森下町(「ぽこぺん都電館」の「大正11年12月現在 東京市電運転系統」*5の「41系統」のボタン・「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」*6の「35系統」のボタンをクリックして下さい)*7まで行き、そこから新大橋線に乗り換えて新大橋を渡り*8、新大橋もしくは浜町中ノ橋(「ぽこぺん都電館」の「大正11年12月現在 東京市電運転系統」の「22系統」・「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」の「14系統」のボタンをクリックして下さい*9)まで、東京市電で移動したと考えた方が、自然なのではないでしょうか。(以下続稿)
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午前中、昨日の記事を一部削除し「昨日アップした分には事実誤認がありましたので、一旦削除し、修正を加えた上で、続稿も加えて本日アップします。」との【追記】を付けて置いたのですが、そこまで到達しませんでした。いずれ修正稿を上げるつもりです。
*1:【8月22日追記】「昭和2年(1927)5月に」を加筆。
*2:「全集・画集」は父「巳之七」の記念に藤牧氏が編んだ『三岳全集』と『三岳画集』。
*3:「あの」とあるのは、この住所は49頁5行めに見えていたため。藤牧氏が入門した染色図案画工佐々木倉太邸「白露会」の所在地。
*4:【2019年7月26日追記】「「ぽこぺん」の「ぽこぺん都電館」」がリンク切れになっていたので、貼り直した。
*5:【2019年7月26日追記】「大正11年12月現在 東京市電運転系統」がリンク切れになっていたので貼り直した。
*6:【2019年7月26日追記】「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」がリンク切れになっていたので貼り直した。
*7:「ぽこぺん都電館」の「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」によれば、浅草駅から出ていたのは「33系統」で、森下町方面に行く「35系統」にすぐに乗り換えることになりますが。【2019年7月26日追記】「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」のリンクを(本文中に貼付してあるので)外した。
*8:【8月18日追記】本書につられて「新大橋」を渡るルートを考えたのでしたが、その後もっと良いルートがあることに気が付きました。ここの記述は、削除はしませんが8月18日付(10)を参照して下さい。
*9:【2019年7月26日追記】上記の理由で「大正11年12月現在 東京市電運転系統」「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」のリンクを外した。