瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(13)

 「これから」「浅草の姉の家」に「行くといって」出ていったのが最後だ、と「友人」は回想していて(264頁)、浅草区小島町の中村家が行先になっているのは、太田家に伝わる「いまから小島町に出かけるつもりだ、と告げて……腰をあげた」という話(316頁)と一致しますから、この、太田家→中村家と、「友人」宅→中村家を掛け合わせれば、方向と距離からして、太田家→「友人」宅→中村家と移動(した、或いは)するつもりだった、ということになります。前回色々書きましたが、この基本線には別に異論はありません。中村家が小島町のどの辺りだったのか、正確には分かりませんが、市電ならば小島町か竹町停留所が最寄りです。太田家から直接歩いて、もしくは東武伊勢崎線業平橋駅から「友人」宅に立ち寄り、少し歩いて業平橋停留所で市電に乗り、厩橋一丁目(旧、外手町)まで1本、ここで、たびたび参照させてもらっている「ぽこぺん市電館」「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」であれば35系統から23系統(始発)に乗り換えることになりますが、すぐに隅田川厩橋で渡って、しばらくして小島町・竹町に着きます。ちなみにこの路線はこの先、「御徒町駅」の「ガード」下を経て「上野松坂屋」の脇を通って「上野広小路の交差点」を越えて湯島の切通坂を本郷へと登って行きます。――93頁に掲載されている藤牧氏の作品《御徒町駅》には、省線の「ガード」下を潜る「市電」の「スパーク」が描かれています。そして、カラー口絵に掲載されている藤牧氏の代表作《赤陽》は、大谷氏により「上野松坂屋の高所から、湯島方面を眺め、眼下に上野広小路の交差点が見える光景である」とほぼ断定されている(208頁)とのことですが、この路線の市電の車両が、しっかり描かれています。
 ――中村家に顔を見せて後は、神吉町の下宿までは乗合自動車も市電もありませんが「一キロ足らず」(316頁)ですから歩くつもりだったのでしょう。
 藤牧氏は昭和5年(1930)か翌年に、浜町を出て「神田松富町にあった図案社「玄黄社」」に移っています(82頁)。経営者は植松盛之助(素鳳。1877/78生)浅草区神吉町11番地に下宿したのもこの頃でしょう。松富町は今の千代田区外神田四丁目の北部、東京地下鉄銀座線末広町駅のすぐ近くです。東京地下鉄道末広町駅昭和5年(1930)1月1日に開業していますから、地下鉄でも稲荷町から1本で通勤出来ましたが、市電でも、「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」であれば33系統(都電の末期には30系統)になりますが、稲荷町から1本でした。
 その後、昭和8年(1933)ごろには、同年に設立された谷口春郷(1906〜2000)*1の「銀座スタヂオ」に勤めていた(174〜176頁)のですが、espritlibre氏の「藤牧義夫 発掘!」「藤牧義夫 略年譜(2) 21歳から22歳」によれば所在地は京橋区「銀座五丁目三ノ一」です。現在の中央区銀座五丁目9番地で、銀座四丁目交差点(地下には東京地下鉄道銀座駅、地上には市電の銀座四丁目停留所)のすぐ近くです。銀座駅の開業は昭和9年(1934)3月3日でそれまでは京橋駅昭和7年12月24日開業)まででしたから、市電で通ったのでしょう。当時の市電の系統等は未確認ですが、廃止前の都電では30系統で稲荷町〜上野公園〜須田町(終点)まで行けました。そこから先は、上野公園から須田町まで同じ線路を走っていた40系統が銀座七丁目まで走っていました。当時も、同じ辺りで1回乗り換えれば、稲荷町から銀座四丁目までは楽に通えたはずです*2
 昭和10年(1935)には旭正秀(1900.5.6〜1956.11.24)の「デッサン社」に所属していたらしい(273頁)のですが、本書には所在地が書いてありません。デッサン社の出版物を見れば分かるのですが、今、見に行く余裕がありませんので、これは後日の課題とします。
 さて、藤牧氏には302頁に図版が掲載される「『新版画』 17号表紙」を飾った、《地下鉄稲荷町駅出口から見上げた空》という作品があります。駒村氏も「彼の下宿はその数ブロック北で、歩けばものの数分の距離だ。……このホームに、彼もたびたび立ったであろう」と述べています(303頁)が、藤牧氏が神田区松富町や京橋区銀座までの通勤をどうしたのか、触れるところがありません。たまに興趣を覚えて街歩きをして、61頁掲載の《朝霧》のような情景に出会ったりしたこともあったでしょうが、毎日歩くはずもありませんから当然、何らかの交通機関を利用したはずです。それは市電であったろうと、思うのです。それから浅草区神吉町に住むことになった理由は分からないようですが、姉たちの家からそう離れていないところで、ということも当然考慮したでしょうけど、転居当時、ここが郷里館林へ続く東武伊勢崎線の浅草駅(現、業平橋駅)まで市電1本で移動出来る場所であったことに留意すべきだと思います。その後伊勢崎線は浅草雷門駅(現、浅草駅)まで延伸(昭和6年5月25日)して、市電だけでなく地下鉄でも、郷里へと続く鉄道に1本で接続出来るようになったのです。

*1:2020年5月3日追記】ここに「大石村ガレージ画廊」HPにあった略歴を貼付して置いたのだが、リンク切れになっている。

*2:「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」の2系統が稲荷町末広町〜銀座四丁目を1本で結んでいるが、末広町より先の松住町〜須田町は「ぽこぺん市電館」「都電路線変遷図」によれば昭和8年までに松住町〜淡路町に付け替えられており、運転系統にも変更があったものと思われるのでここには挙げなかった。