瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(17)

 いよいよ窮して来たので、昨日は古い下書き記事から、書いた当時少し躊躇するところがあって出さなかったものを上げて置いたのだが、今日も9月上旬に書いて、なんとなくそのままになっていた記事を上げて置く。当時、もう少しなんとかしようと思っていたのだと思うのだが、今となってはどうしようもないので、そのまま上げて置く。
 9月2日付(16)で検討した、小野忠重『版画の青春』についての、拾遺とも言うべき記事。

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 『版画の青春』にはあと2箇所、注意すべき記述があります。284〜285頁に「あとがき・ある収集家の回想」として、知り合った当時「本郷の酒造具商の店員」であった「柴秀夫(一九〇七―)」について述べています。本書(『君は隅田川に消えたのか』)では柴氏が新版画集団に参加した理由について、特に述べるところがありません、小野氏はまず知り合ったきっかけを「とりもち役は木版の年賀はがき、彼も私も版刀を手にしてまもなくで、私が通い出した本郷絵画研究所のすぐ近くが、彼の住居も兼ねるその店だったからなのである」と述べ、さらに、以下のように述べています(285頁1〜5行め)。

 私の版画の歩み出し、新版画集団は、柴と話あったのが、はじまりだった。彼が援助していた藤牧/義夫が加わり、当時東京美校生だった武藤六郎、水船六洲が加わり、清水正博、畑野織蔵が参加し/て、丸みは大きくなっていった。しかも柴じしんはなぜか自作をやめ、コレクションは私に贈与さ/れ、なかまの研究資料として呼吸をはじめたのだが、自作をやめた彼をおもうと、私はいまも涙がに/じむ。


 武藤氏の回想(8月31日付(14)参照)によると、武藤氏が小野氏に会ったのは昭和6年(1931)6月21〜25日の新興版画第1回展がきっかけで、小野氏から「是非遇い度い」という葉書を受け取ったからだったのですが、会ってみて「版画の研究会を作ろうという事になり」勧誘に努めた結果が翌昭和7年(1932)4月の新版画集団の結成に繋がった、ということになるのですが、この小野氏の文章はそれと矛盾しています。
 本郷絵画研究所は「小野忠重 年譜」の「1925(大正14)年(16歳)」条に「この頃、蒼原会に所属しながら、東京・本郷にあった岡田三郎助の本郷絵画研究所にも通って絵を学ぶ」と見えています。
 ですから、武藤氏に会う以前に、柴氏と何か集まりを持ちたいな、くらいの話をしていたとしてもおかしくはないので、その点では矛盾していないと言えそうです。しかしながら、決定的におかしいのは、武藤氏に会う前に柴氏「が援助していた藤牧義夫」として見えることです。これは「回想の藤牧義夫」の「柴秀夫……と親しんでいた藤牧義夫」(本書260頁)と似た内容と読めますが、だとすると同じかんらん舎図録に載った、小野氏が書いたという「藤牧義夫・年譜」に「新版画集団創立打合せ会に吉田正三の紹介で出席す」(本書87頁)と合わないでしょう。この「あとがき」の通りだとすれば柴氏の紹介とあるべきです。しかしながら「小野忠重 年譜」の「1979(昭和54)年(70歳)」条(251頁左)を見るに、

12月21日 1931年以来、新版画集団結成以前から小野の良き理解者、後援者でもあり小野がもっとも信頼していた柴秀夫の告別式。清水正博、畑野織蔵、松下とともに参列する。

とあります。『版画の青春』の「あとがき」では、もっと以前からの知り合いだったかのように読めるのですが。どうも小野氏の書いていることは、全般的に一筋縄では行かないと言う印象です。それから、1980(昭和55)年(71歳)」条(251頁左)の「この頃、身辺のことが気になり、作品などの整理を始める。」の1行も、なんだか気になる。……版木の処分ということが、どうしても脳裡を掠める訳です
 『版画の青春』に戻って、276〜283頁「年表」には「一九〇〇(明治三十三)」から「一九五〇(昭和二十五)」までが記載されていますが、「一九三五(昭和十)」の最後に「藤牧義夫没」とあります。