瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(08)

 本書については、もう1点瑣事に触れて終わりにして、後は大谷氏の『藤牧義夫 眞僞』や現在開催されている展覧会の公式カタログについて触れるついでに、述べることにしようと考えていました。
 しかし昨日、平成23年(2011年)8月14日付「産経新聞」日刊24673号・9面「読書」欄に載った美術評論家大倉宏の書評「友人が作った虚像から解放」を読んで考えが変わって、もう少々蛇足を連ねてみたくなりました。
 この書評は題からも察せられるように、本書が「希望に生かされる静かな男」という新たな藤牧像を描いて見せたところを評価しています。そして、以下のように締めくくっています。

……。それは、眞贋が混/ぜ合わされていたとしても、/私がかつて見た藤牧の遺作展/の印象と、違和感なくつなが/る。その藤牧義夫は、なぜだ/ろう、決してその「友人」/を、もう責めてはいないとさ/え感じさせるほど魅力的だ。
 この読後感こそ、すぐれた/ノンフィクションとしての本/書の力だ。


 引用したうちの1文めは、この「友人」が広めた「虚像」と「贋作」から藤牧像を組み立てていた美術界の、開き直りの言い訳のようにも読めてしまうのですが、問題は次の1文です。大倉氏も2段落めの最後に「その事実……から想像されてしまう内容までを含め、おそろしく、哀しい。*1」と書いていましたから、もちろん本書が示唆するこの「友人」の所業については承知しているのですが、その上で「決して……もう責めてはいないとさえ感じさせる」と書くのです。しかし、これはあまりにも大倉氏の主観が入り過ぎているのではないでしょうか。直前の文と絡めて、美術界としてこの問題をあまり蒸し返したくない、という意識が、このように読ませてしまうのではないか、と、私などには邪推されてしまうのです。

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 「友人」への疑惑は、大きく分けて「失踪そのものへの関与」と「贋作への関与」とに分けられると思いますが、後者については、それこそ大谷氏の大著を検討してから述べるべきでしょうから、ひとまず措きますが、本書でも指摘されているように、決して小さくない問題でしょう。そして前者は、そもそものきっかけとなった、大きな問題です。
 ネット上には、推測でも良いから失踪当日に何があったのか書くべきだった、という意見も散見されるようです。それは、駒村氏が「それが限界であった」と慎重に総括(348頁)したりしているので、もっと書けたはずだ、という印象を受けたのかも知れませんが、本書には十分書き尽くされていると思います。この書き方であれば、読者はもう、1つの筋書きしか思い浮かべることが出来ません。今さら確証の得ようがない昔の話で、しかもそれは、どうやら殺人事件(もしくは傷害致死)なのですから、どうしても核心部分を書く訳には行かないのです。そこで駒村氏は、状況証拠を積み上げて、核心部分を読者にイメージさせるよう巧みに仕向けています。もし、本書を基に当日の状況を台本(もしくは小説)に書け、と言われたとして、私は何の躊躇もなくすらすらと書くことが出来るでしょう。もちろん、内容が内容であるだけに登場人物は仮名にして、設定も若干ずらさざるを得ないと思いますが。
 という訳で、これはやらないで置こうと思っていたのですが、――こんなことをされたのに藤牧氏が「もう責めてはいない」とは、まるでその「友人」の広めた「虚像」と選ぶところがないではないか、という気分にさせられて、それで改めて、失踪当日について、駒村氏がどのように処理しているのかを、点検してみたくなったのです。

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 昭和10年9月2日(月)の「夕刻」、藤牧氏は「向島区吾嬬町にあった姉・太田みさを」の家を訪ねています。

 太田家は、上野駅にちかい浅草区神吉町の藤牧の下宿からは、三キロほど北の方角にある。

とある(316頁5行め)のですが、それでは荒川区町屋の辺りになってしまいます。「三キロほど東の方角」であれば、ちょうどかつての向島区吾嬬町、現在の墨田区の、東武伊勢崎線曳舟駅か請地駅(廃駅。業平橋曳舟駅間にあった)の辺りになります。その辺りであれば「友人」の家からは確かに「一キロほどしかはなれていない」(319頁)のです。
 「館林で夏をすごした」藤牧氏(316/314頁)が、いつ東京に戻って来たのかははっきりしないようです。駒村氏は「東京にもどってすぐ」としています(314/316頁)が、或いは、8月29日(木)の台風をやり過ごして二百十日のこの日に館林を発って、伊勢崎線の終点浅草雷門駅(現、浅草駅)まで乗らずに太田家の最寄り駅で途中下車して、顔を見せていたのかも知れません。全くの想像ですが。
 藤牧氏は太田家を「いまから小島町にでかけるつもりだと告げて」出て行ったそうです。浅草区小島町には姉・中村ていが住んでいました。「友人」の回想に出て来る「浅草の姉の家」です。「夜になって」からだそうですが、そんなに「夜おそく」ではなかったのでしょう。*2

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 書いてみるとまた色々と突っ掛かって、最初に読んだときには気付かなかった疑問点が気になったりして、長くなってしまいました。続きは後日。

*1:ルビ「かな」。

*2:【8月16日追記】昨日アップした分には事実誤認がありましたので、一旦削除し、修正を加えた上で、続稿も加えて本日アップします。翌日の記事を上げるまでは適宜修正を加える、という決まり(1月13日付の後半)にしていましたが、結構ごっそり削ることになりましたので、一言お断りして置きます。