瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(18)

・著者の家族と住所(7)
 田口氏の強制疎開までの住所が「東京市赤坂区青山南町5丁目84番地」であったことは、1月23日付(03)に引いた144頁上の写真キャプションにて、2月12日付(12)等に確認して来たが、本文の方にも、第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし【10】街を流す物売りの声はお江戸の名残の冒頭、82頁14行め~83頁1行め、

 子どもたちが夕暮れまで遊んでいたわが家の前、赤坂区青山南町五丁目八十四番地の住宅街【82】の通りには、江戸の名残のような物売りがそれぞれの時間帯にやってきた。

*1あった。続く記述は1月15日付「森川直司『裏町の唄』(15)」等に触れた、同時期の東京市深川区の物売りについて述べた『裏町の唄』【14】「物売り」と比較したら面白いと思うがそれは別の機会に果たすこととして、ここでは別に地理的な説明を抜いて置こう。
 すなわち、田口氏が青山南町に住んでいたことを初めて明示した、36頁2~3行めに、

 私が子どもの頃住んでいた青山南町の家は、電車通りから歩いて十分ほどだったが、折れ曲/がって坂を下ったところだったので、騒音などまったくない静かな住宅街にあった。‥‥

とあり、【11】通りを彩ったその街の人々の節、85頁2~8行めには、

 私の家の位置は、起伏のある青山の住宅街のなかに人知れずあるような、いまの246から/つづく住宅街の台地の間を、ぐん、ぐんと坂を二度ほど下った、谷合いのような細く長くつづ/く住宅地の一角にあった。
 車はめったにこなかったけれど、一台が通れるほどのアスファルトの道の両側に、当時洋館/と呼ばれていた洋風の家や和風の家がそれぞれ塀を巡らして並んでいた。片側ほぼ二十軒ほど、/両側で五十軒はあっただろうか。その当時の家並の一軒一軒を思い出そうとすると、頭のなか/に、下り坂にかかる端から順に、当時の家家の様子が浮かんでくる。そしてその家の人々も。

と一層詳しく、続いて女優の志賀暁子(1910.6.17~1990.9.17)、俳優の石黒達也(1911.7.1~1965.12.18)を初めとする有名無名の住民たちが回想される。
 なお、「電車通り」とは、20頁2~5行め、

 その昔というほどの半世紀前、いま246と通称になっている青山通りは、電車のレールが/敷かれ「築地行き」や「須田町行き」や「神保町行き」の市電が行き交っていたいわゆる電車/通り、都電ではない市電……。市電という響きこそが、昭和十年代のはじめ頃のあの電車通り/に、私たちの感覚を引き戻してくれる。

とあるように、青山通り国道246号線)のことで、当時は路面電車(市電、昭和18年に都電となって昭和43年9月29日廃止)が走っていた。
 そして、疎開先から帰京時のことは第四章 新しい時代が開く前に【25】生き生きと明るかった東京青山の敗戦直後に記述されている。258頁1~4行め、

 私は半年ほど前の空襲下に、非常時下の時の政策とはいえ、目の前で無残に引き倒されたわ/が家に未練を残すひまもなく、明日の命もわからないような逼迫した状況下に、行く先にわず/かな希望を託し、手荷物だけであとにした住宅街の道を、父の仮住まいに向かって歩いていた。/アスファルトには秋の午後の陽ざしがあった。


 まだ続くのだが今回はここで切って置く。――ここでちょっと想起されるのは、1月12日付「森川直司『裏町の唄』(12)」に引いた、田口氏よりも5学年上で、戦前、東京市深川区で過ごした森川直司が映画『ALWAYS 三丁目の夕日』への違和感として「私の子供時代の裏通りでもほとんどがアスファルト舗装でした」と指摘していたことで、当然、山の手の青山の住宅地もアスファルト舗装だったのである。(以下続稿)

*1:9月20日追記】以下、当初「、続いて」となっていたのを灰色太字のように改めた。