瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(16)

 本書の「第12章 物語は連鎖する」に、これまで度々引用してきた小野忠重による藤牧義夫の評伝「回想の藤牧義夫」の全文を「美術の世界ですっかり認知された藤牧義夫像の原型」として、掲載しています(260〜264頁)。
 これは、藤牧氏再評価のきっかけとなったかんらん舎の藤牧義夫遺作版画展の図録(1978年1月17日)に掲載されたものですから、その後の研究の方向付けをした文章に当たる訳です。この図録は国会図書館にも所蔵がなく大学図書館では東京芸大のみ、美術館の図書室には所蔵がありますが、すぐに見られる本ではありません、資料的価値という点でも、良かったと思います。
 しかしながら、間もなく小野氏は、この文章に加筆修正を加えて、雑誌と著書に再録しているのです。こちらの方は、本書がママを附している誤植や脱字も直されています*1。一部おかしなところがありますが。従って、小野氏の言い分を十分に聞くためには、細かいところで一部意味が取れない箇所のあるかんらん舎図録ではなく、この修正稿の方に拠るべきだと考えます。
 もちろん、両方を掲載する訳には行きませんし、片方の異同を注記する、というのも、一般向け書籍では難しいのでしょう。もっと難しい問題があるのかも知れません。或いは、大谷氏の『藤牧義夫 眞僞』に異同が取られているのかも知れませんが、大谷氏の著書は本書ほど流布している訳ではありませんので、ここに「回想の藤牧義夫」と、『版画の青春』に再録されている「藤牧義夫・その出会いと別れ」との異同を示して置きます。大谷氏の本はいずれ通読するつもりですが、しばらくは本書の検証を主にしてみたいと思い、敢えて、読まずに置くこととします。
 さて、小野忠重『版画の青春』(昭和五三年十二月十日発行・定価五、八〇〇円・形象社・285頁)は、中扉に「創作版画運動の青春像」とあるように、小野氏の青春期に創作版画運動で活躍した人物についての回想など15本が収録されています。243〜263頁「連刊創作版画集の若ものたち」はごく簡単なものですが、本書70・85頁に引用されている加治幸子編著『創作版画誌の系譜』の原型というべきものでしょう*2。その最後(265〜274頁)に収録されているのが「藤牧義夫・その出会いと別れ」で、末尾に(『みづゑ』一九七八年四月)とあるように、美術雑誌「みづゑ」第877号(昭和53年4月号)76〜79頁に発表された「回想の藤牧義夫 ある木版画家との出会いと別離」の再録です*3。比較してみるに、かんらん舎図録の「回想の藤牧義夫」に推敲と追記を加えた、同じ文の別ヴァージョンと呼ぶべきものです。
 厳密には「みづゑ」とも比較するべきなんでしょうけど、差し当たり最初のヴァージョンと最後のヴァージョンの異同を示して置けば良いでしょう。全文を引くと長くなりますから、『版画の青春』に掲載されたものを基に、異同箇所について、『版画の青春』での形を太字にして示し、*(注)にかんらん舎図録での形を示しました。いえ、かんらん舎図録はまだ見ていないので、正確には駒村氏が載せている形との比較です。注がないのは、かんらん舎図録に該当する語句がないことを示します。逆にかんらん舎図録にのみ存在する語句は、薄い太字で示しました。同文の箇所は異同の前後を引いた以外は「……」として省略しました。『版画の青春』では算用数字は漢数字になっていますがこれは一々異同を注記しませんでした。年記についても同様です*4。またかんらん舎図録では全て「 」鍵括弧ですが、『版画の青春』では『 』二重鍵括弧も使われています。他にも統一して字体が違う、かんらん舎図録「舘」→『版画の青春』「館」も、一々注記していません。

 一九三二年(昭和七)、いまから四十六年も前のことだ。私は、ふと知りあった……版画の小さい集まり新版画集団を私はもった。当時東京美術学校……、学生自*5活動で……、彫刻*6水船六洲、……藤牧義夫などごく最初の話*7なかまとし、……第一回展をひらいた。後に版刀からはなれた柴をべつにして、ほかの三人はいまも版画にかかわりあいをもつが、その身体ごと失われた藤牧に、私はしみじみ胸きざまれる想いがするのだ。
 画友と……交換しはし*8ない。……釘づけになる*9そんな……「家」の重荷はその頃……、現に銀座裏の……満足でなかった。話題は数年前死んで、現に大形小形の遺作展示行われている佐伯祐三かわった。……写真版で知ったキルヒナー、ディックスからコルヴィッツにおよぶドイツ表現派以後の……だったのだ。
 病身で父の死に……終った藤牧は、姉夫婦をたよって上京すると、上野図書館通いをする。『商業美術全集』が円本で出ていた頃だから、そんなものをたよりに学んで、図案工房に職を得たのだが、すこしの時間をみつけては、東京の街と人とを描いて*10いて、*11きまくっ【266頁】た。……懐中して……空所といった紙なのである。……版画の技法(一九二八年昭和3刊)……木版のサクラや……また一九三一年昭和六春陽会出品作……、雪の墓*12とか夜の墓*13とか、つづけざま「墓場」……びっくりさせた。
 親おもいの……生地に帰る*14たびに、……、自虐的な厭世*15も……。自ら埋葬するようすが、いまにしてうかんで、私はゾッとした。集団以前にプロレタリア美術運動に関係あった私は、生産労働の場だとか人間生活の場だとか、青くさい呼吸を彼にふきかけたが、彼は無口にうなずくだけで、清洲橋のセメント工場や白鬚橋のガス工場や貧しい東京下町の家並が、画題に加わっていった*16
 いまぱらぱらと、ありふれた年表を……満洲事変起り、「満洲国」の建国宣言行われる翌年には、上海事変であり、五・一五事*17も……。一九三三年には……、三六年(昭和十一)の……、翌年溝橋事*18にはじまる日中戦争*19りたてられていく。
 藤牧は……ていた。【268頁】
 一九三三年の帝展に……、こんなことで霧*20する。貧しい自*21の周辺に、……耐えきれない自*22くらしの不安を、それでもおしかえす……ていった。
 彼を元気づける……、気のよわい藤牧であ*23った。……であった。
 そして、……葛飾*24の……。その頃私の向島の家近くの……隅田川両岸一覧……見せたのが直接の動機だった。館林から出ていらいほとんど……であった。
 もう展覧会でも……、その頃良質の……巻紙は、画材店でなく、あらもの店で扱う身辺の日用品*25った。障子貼り*26にもなり、毛筆用箋にもされていた。それを使っ【270頁】て、*27亡父の……墨池*28矢立て」で……であった。
 生れた向島家も20年(一九四五三月の米軍爆撃で失われたずっと後に、私は東京下町の絵の集まりで藤牧の話を……あるが「知っている」……描いているので話しかけたらその一部を……通行人から*29意外な言葉をうけ、……と知ったのであろう*30。……裏街の部屋*31に入ると、……。それいらい彼は、私たちの……ている。
 しかし私には、最後のわかれが頭にしみついている。一九三五年昭和十の九月に……、ドサリおいて、これをあ*32かってくれという。……、どの図版のうらにも*33の鉛筆がきの*34のこる、……、アトリエ誌の……「来ない」と知らせあって、……のである。
 いくどか……雑文を*35いた……姉さん夫婦を……、仏壇を見あげると、……のこしていた。【272頁】
 稿後に
 ことし、一九七八年七月、藤牧の郷里館林の、彼の父の家である旧秋元藩侯の別邸、現在のつつじヶ丘公園に彼の版画碑が建った。私のよびかけに応じて、新版画集団の旧友柴秀夫、清水正博君が協力してくれた結果である。本書にも掲出した「城沼」の水辺であり、この絵の版木をブロンズにした周囲に、「藤牧義夫版画碑」の文字をあしらっている。
 時折郷里にかえる藤牧だが、いつも「乗物にのると、とたんに呼吸がらくになる」といっていた。空気汚染のさわがれない、そんな時期に、ただもう東京ぐらしのつらさがやりきれなかったのである。故郷おもいの彼だ。少年時には水辺で遊んだその場所に建碑できたのは、私も喜びである。【274頁】


 頁の最後の位置を【 】で括って示しておきました。265頁は扉で題のみ、本文は偶数頁で、奇数頁は図版、267頁に「寺/畠の風景/アドバルーン御徒町駅附近/やまやま」、269頁に「都会風景/城沼の冬/墓・夜」、271頁に「映画館」、273頁に「出を待つ(レヴューの女)」がモノクロで掲載されている。またカラー口絵の最後の見開きの右に、本書カラー口絵とは別の刷の「給油所」が、左の「小野忠重  工場区の人々」と向かい合わせに掲載されています。
 さて、これにより、駒村氏が本文中に「ママ」を附して引用していた、誤記・誤植が訂正出来ます。「彼の鉛筆画のこる」は「例の鉛筆がきののこる」で、元のままでも平塚運一『版画の技法』(本書261頁)について触れた段落の記述を指していることは見当が付きますが、もちろん訂正した方が良く分かります。また「生まれた向島の家も一九四五年三月の米軍爆撃で失われたずっと後に、私は」も悪文ですが、かんらん舎図録の「生れた家も20年(1945)3月の米軍爆撃で失われた。ずっと後に、私は」よりはマシになっています。
 それよりも注目されるのは加筆部分ですが、この辺りは大谷氏の本でも問題にされていることでしょうから、踏み込むのは止めて置きます。『版画の青春』についてはもう少々気になるところがあるのですが、それらは大谷氏の大著を読んでからにするべきでしょう。今回は疑問箇所の意味が通る「回想の藤牧義夫」の改訂稿を紹介するに止めます。

*1:或いは、かんらん舎図録の表記こそが小野氏の癖を忠実に写したもので誤植等ではなく、『版画の青春』の方が編集段階での校閲で修正されたものなのかも知れませんが。

*2:74誌について略述。「詩と版画」II、「さとぽろ」創刊号、「試作」No.1・No.2、「港」1、「風」1の書影を掲載。

*3:未見。但し『小野忠重全版画』238頁、「小野忠重 年譜」1932(昭和7)年(23歳)条に(小野忠重「回想の藤牧義夫」『みづゑ』1978年4月号 p.76)として引用される「……第一回展をひらいた。」までは『版画の青春』に一致。

*4:かんらん舎図録が算用数字になっているのは、横組みだからでしょうか。本書及び『版画の青春』は縦組みです。

*5:かんらん舎「治」。

*6:かんらん舎「家」。

*7:かんらん舎「あう」。

*8:かんらん舎「するわけも」。

*9:かんらん舎「。」。

*10:かんらん舎「か」。

*11:かんらん舎「か」。

*12:かんらん舎「場」。

*13:かんらん舎「場」。

*14:かんらん舎「へ往復の」。

*15:かんらん舎「感」。

*16:かんらん舎「ぶのである」。

*17:かんらん舎「変」。

*18:かんらん舎「芦溝橋事変」。

*19:かんらん舎「刈」。

*20:かんらん舎「散」。

*21:かんらん舎「分」。

*22:かんらん舎「分」。

*23:かんらん舎「だ」。

*24:かんらん舎「斉」。

*25:かんらん舎「であ」。

*26:かんらん舎「紙」。

*27:かんらん舎「に」。

*28:かんらん舎「・」。

*29:かんらん舎「に」。

*30:かんらん舎「る」。

*31:かんらん舎「へや」。

*32:かんらん舎「づ」。

*33:かんらん舎「彼」。

*34:かんらん舎「画」。

*35:かんらん舎「書」。