瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(15)

吉田正三について(2)
 さて、吉田氏ですが、小野氏の『ガラス絵と泥絵』の「小絵馬考」第二章「絵馬の盛衰」(101〜122頁。第一章は「絵馬の起源」96〜100頁)に、次のように紹介されています(114頁7行め〜115頁4行め)。

●東京最後の絵馬屋
 その絵馬屋の一人にわずかながらつきあった記憶/がある。千住の旧日光街道に面した絵馬屋吉田政造/だが、はじめは絵馬つくりとは知らなかった。昭和/七年神田の文房堂の世話で行われた年賀状版画がき/っかけで生れる新版画集団に参加したが、出品した/のは、この年秋の第一回展、翌年春の第二回展ぐら/いで、彼はそこからはなれていった。のちに彼が書/いたものでみると――初めから頑強な父の反対があ/り、家を背負って伝統の中にいては思う事ができず、/さりとてそれを切断する勇気はない。いたずらにあれこれと/苦悩のみが増し、いつか絵ができなくなってしまった。そし/て示すべき作品もないうちに、古い絆に引かれて後退してし/まった――という。


 115頁右上には「絵馬師 吉田政造」の写真があります。続く「●絵馬はかそけき祈りのみ」の節には、「私より数歳年長の俳号絵馬寿の吉田政造」について、昭和36年(1961)に小野氏が「美術雑誌から絵馬の稿を望まれて出かけた」ことや、昭和43年(1968)に吉田氏が出した句集『千住』に小野氏のことを詠んだ句が見えることなどに触れ、118頁1〜4行め「……。句集の/数年後七二年の春さきに、「東京にたった/一軒のこった絵馬屋」のことばにおくられ/て世を終えた。」と締め括っています。
 この「美術雑誌」ですが、「小野忠重 文献」の「●自筆文献/定期・逐次刊行物」を見るに、259頁左「くらしの中の絵 絵馬・その画家の肖像『美育文化』7月号(第11巻第7号)、1961年、50-53ページ」が該当しそうです(未見)。それから新版画集団設立の事情が、本書の説明と食い違うようですし、和歌山県立近代美術館が示す吉田正三の生年と吉田政造の生年の食い違い、それから吉田正三は昭和9年(1934)7月20日発行の「新版画」第13号東京風景特輯号の表紙も担当していますから、すぐに新版画集団「からはなれ」たように読める小野氏の記述とも食い違うのですが、別に候補もいませんから小野氏の記述に関しては単純な記憶違いの類と見るべきで、この、版画をやっていた吉田正三と、絵馬師の吉田政造とは、同一人物であると見て、間違いないのでしょう*1
 吉田政造(1906.6.15〜1972.2.5)はコトバンクにも立項されています。小野氏は「東京最後の絵馬屋」としていますが、死去に際して確かに、昭和47年2月7日(月曜日)付「読売新聞」第34278号(14)面に「“最後の絵馬師”ゆく」という記事が出ているのです*2が、この繪馬屋(千住絵馬屋・吉田家)は娘の吉田晁子が8代目を継いで現在も存続しており、HP「日本の職人」の「職人File」15番外編「絵馬をつくる/吉田晁子」(文:舟橋左斗子/写真:柏原文恵)に詳しい紹介があります。
 吉田氏の著述や、他に吉田氏について紹介した文献等については、追って確認し次第、紹介したいと思っています。

*1:神奈川県立近代美術館HPのコレクション検索「吉田正三」にも、「千住大橋夜景」「鐘が淵風景」など千住周辺を題材とした作品が挙がっています。

*2:他に「朝日新聞」「毎日新聞」「日本経済新聞」の縮刷版を見たが、載っていなかった。