瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(18)

吉田正三について(3)
 本書は Amazon 等のレビューや、最近でも Twitter の投稿にて、かなり高い評価を得ているようですが、私の評価は否定的なものとなっております。――当ブログではこれまで、駒村氏が当時の都市交通網を考慮に入れていないことを指摘し、こうした視点の欠如が藤牧義夫が消息を絶った日の記述に、特に大きな歪みを与えていることを考証してきました。そしてこの上は、駒村氏の種本とも云える、大谷芳久『藤牧義夫 眞僞』と対照させて、大谷氏の集めた資料を駒村氏はどのように活用し、或いは誤読したかを検証しようと思って、神田神保町の山田書店美術部に割引で出ていた『藤牧義夫 眞僞』を購入しようと考えておったのですが、一方で、駒村氏の本に対する疑義は当ブログにこれまで書いたことで十分伝わるはずで(しかし、これ以前に殆ど閲覧されていないようですが)そこまで追及しなくても良いのではないか、と躊躇する気持ちもあって、逡巡するうちに山田書店美術部オンラインストアから『藤牧義夫 眞僞』は姿を消してしまい、それでは手の空いた折に近所の市立図書館に都立中央図書館の蔵書を取り寄せて、とも思ったのですが、他のことにかまけて半月藤牧義夫にかまける余裕の作れないままに、現在に至っております。
 その辺りの事情の一端は2015年3月23日付「永井荷風『濹東綺譚』の文庫本(01)」に述べてしまって、今更再開しようと云う気分にはならないのですが、最近別の興味から借りて来た、主として東京の職人に関する1960年代の2冊の本に、千住の絵馬師・吉田政造(1906.6.15~1972.2.5)が取り上げられていたので、2011年8月31日付(14)及び2011年9月1日付(15)の続きとして、特に後者の末尾の、

 吉田氏の著述や、他に吉田氏について紹介した文献等については、追って確認し次第、紹介したいと思っています。

との約束(?)を10年振りに果たしたいと思ったのです。

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東京新聞社社会部編『名人 〈町の伝統に生きる人たち〉103~106頁
【20】絵 馬 《吉田政造さん》
・杉村恒『明治を伝えた手』24~25頁
【12】絵 馬 師/吉田政造(東京都足立区千住)
 前者は5月14日付「東京新聞社社会部編『名人〈町の伝統に生きる人たち〉』(2)」の前後に、後者については4月12日付「杉村恒『明治を伝えた手』(1)」及び5月16日付「杉村恒『明治を伝えた手』(2)」参照。
 ここでは前者の本文に、後者の関連箇所を添える形で見て行くこととしましょう。
『名人』103頁2~13行め

 吉田政造さんは、絵馬を四十年近く作りつづけてきた。東京にただ一軒残る絵馬屋の当主である。
「名人なんてもんじゃあない。親から受け継いだ仕事を、やっているだけです……」
 と、固く断わるのをおして訪れた。
 千住旧街道に面した古いつくり。ガラス戸をあけて入ると、そこが仕事場だった。部屋いっぱい/に、新鮮なニカワのにおいがただよっている。江戸からのものというキリの絵具ダンスを背に、きち/んと正座して仕事をする。ハケをおき、メガネをとって語りはじめた。よく通る若い声。
「七代目になります。おじいさんは、銀座の貝屋という絵馬屋で修業したそうです。まだ、むかしは/絵馬屋なんて商売も結構金になったものと見えます。だが、絵馬のかたわら中村座なんぞの江戸三座/に出入りもして〝遠見〟つまり背景を描いていたらしい。いまでいうアルバイトですな」
 政造さんは、その父に小言をいわれいわれてこの仕事を覚えた。父は戦争中の十九年に死んだ。遺/品の筆箱をみせてもらうと、かすかに「天保……」の文字が読めた。政造さんは明治三十九年生まれ/である。【103


『明治を伝えた手』は吉田氏の発言を2つ紹介していますが、2つめの前半がこれに関連しております。24頁11~13行め、

「私の先祖ですか、絵馬で商売をして四/代まではさかのぼってわかっているのです/がねえ、その前三代あったという話ですよ、/‥‥


 四代目が「天保」なのでしょう。五代目が「おじいさん」そして六代目が昭和19年(1944)歿の「父」と云うことでしょうか。2011年9月1日付(15)に引いた小野忠重『ガラス絵と泥絵』114頁15~16行めに、吉田氏の文章を引用して「初めから頑強な父の反対があり」とあるのが「その父に小言をいわれいわれて」と云うのに合っているようです。(以下続稿)