瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

七人坊主(26)

 昨日引用した坊主の姿を見た、という話だが、10月22日付(09)に引用した小寺融吉「八丈島の話」では、七人坊主は海岸で惨殺され、以後「其地へ来て「坊主」と呼ぶと、必ず七人の坊主の姿が夢現と現れたので、それからは誰でも其地で坊主といふ言葉を慎んだ。」となっている。ところが『八丈島の民話』の書き方(10月18日付(05)参照)では、巫女に言われて七人坊主の塚を東山の頂上に建てて以来「白い衣を着た坊さんの亡霊が歩きまわ」るようなことはなくなったかのように、読める。しかしながら同じ浅沼氏が『流人の島』では姿が見える、という話を、戦後のこととして書き留めていたのであった。
 ところで、初版「内地」と改訂版「外地」とでは意味が違って来る。前者なら八丈島出身者が本土から島に引揚げて来たことになるし、後者なら南洋や台湾・朝鮮・満洲など植民地から引揚げて来たことになる。いづれにしても住み着こうとは大胆なことをしたものだと昭和27年(1952)の事故を七人坊主との因縁で解釈しようとする立場からは思われるのであるが、小寺氏が紹介しているように、大正の頃既に「或若者が馬鹿にしきつて出かけて行き」ということがあったのである。
 さて、11月21日付(20)で、林道工事以前の東山に牛がいたらしいことに注意して置いたが、この戦後の入植者たちの牛ではないか、と思う。林道工事はこの数年後の出来事であった。
 最後。

 昭和二十七年に東山を横断して潮間*1へ通じる林道工事が進められた。そのとき工事に働いて/いた村民が、頂上近くでタコツキをやりながら、七人の坊主の悪口を歌の文句にしたそうだ。/それがたたってかそのあくる日、十一月十九日に現場で働いていた七人の村民が、山くずれで/生埋めになってしまった。
 全島大騒ぎになり二日がかりで皆な遺体は掘り出されたが、坊主の悪口を言った人ほどその/姿は変りはてていたそうだ。この生埋めになった人数がちょうど坊主と同数の七人であったか/ら、その当時非常に不思議がられた。 


 遺体については、小池壮彦『怪奇探偵の実録事件ファイル2』33頁に図版として掲載される地元紙「南海タイムス」によると、当日のうちに5人が、翌朝に2人が掘り出されている。
 「坊主の悪口を言った人ほど」云々は『八丈島の民話』(10月18日付(05)参照)にはないが、事故原因が七人坊主に結び付けられてしまえば、坊主を侮辱した人間が一番酷い目に遭わないと理屈に合わない訳だから、こういう発想が自然に出て来るので、まさに尾鰭というべき、後付の説明であろう。実際に遺体が「言った人ほど」そう見えたとしても、それは、偶然である。

*1:ルビ、改訂版「しおま」。初版「しずま」。