瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

七人坊主(42)

・三木孝祐『幽霊がいる場所、教えます。』(3)
 昨日の続き。
 記事の内容であるが、まず八丈島流刑地であったこと、そして溶岩洞窟に姥捨てが行われていたこと、「/この洞窟の近くでは、しばしば老婆の幽霊が目撃されている。薄汚れた粗末な着物を着て、石/に腰掛けたり、木の根元に座って、ぼんやりしている。おもわず声をかけたくなるほどの哀れ/さ、だという。じっと見ていると、この老婆は不気味な含み笑いを残して、すうっと消え去る。/この老婆の幽霊こそ溶岩洞窟内に散乱する白骨の正体なのだ。」という話をマクラにして、本題に入る。

 村人たちは、飢饉の年に島に漂着した僧侶七人を、「よそ者に食わせるものなどない」と、/山奥へ追いこみ、殺した。江戸時代に起きたこの事件は《七人坊主惨殺咄》として言い伝え【以上84頁】られた「決して人前では口に出してはならない」と、定められたにもかかわらず、島民たちは、/この話をひそかに語りついでいく。*1


 現地で口にしてはならない、ということで「決して人前では」などとまで厳しく「定められ」てはいなかったはずだし、別に「江戸時代」と確定されている訳でもない。しかし、このような解釈が加わることで、話は変化して行くのである。

 多くの年月が流れ、悲惨な七人坊主惨殺咄を、たんなる昔話としか島民たちが思わなくなっ/ていた昭和二十七年(一九五二)、その事件は起きた。林道建設の作業員のひとりが「このあ/たりで江戸時代に、七人の坊主が島民たちに殺されたんだ」と話した。その場は何事もなかっ/たが、数日後、土砂崩れが発生し、作業員八人が生き埋めになった。ひとりは生き残ったが七/人は治療のかいもなく死亡した。


 これが次の段落であるが、話をした「数日後」ではなく、浅沼氏の『流人の島』と『八丈島の民話』では翌日、菊池氏は直後に土砂崩れが起こった、としている。それから生埋めになったのは「八人」で、うち「ひとり」だけ生き残ったというのは、浅沼氏も菊池氏もそんなことは書いていないし、小池氏の紹介する「南海タイムス」にもそんな事実は見えない。それから「七人」は「治療のかいもなく死亡した」のではなく、遺体で発見されたのである*2。また、再度「江戸時代に」としているが、これも無意味な刷込みである。
 さらに続きを見て行こう。(以下続稿)

*1:ルビ「ざんさつばなし」。

*2:『流人の島』は2011年11月29日付(26)、『八丈島の民話』は2011年10月18日付(05)、菊池氏の『本当にあったおばけの話⑩』の要約は2011年10月18日付(02)。また、2012年2月25日付(34)に「毎日新聞」、2012年2月27日付(36)に「朝日新聞」の記事を引用した。