瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(08)

 前回、法木作村のモデルなどと断定的に書いたのだけれども、決定的な証拠はない。
 記述から大体は絞れるのだけれども、記述だけでは絞り切れないところもある。
 とにかく、はっきりしているところまでを、辿ってみることにしたい。

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 小千谷の町に入った主人公は、「町のなかほどのところ」にある「役場」の「隣り」にある「ソバ屋」で「手打ちのじつにうまいソバ」を食べる。そして「色の小白い中年のおかみさんに法木作へいく道をたずね」る(24頁)。

「あれ、あいにくとバスは今ほど出てしまいましたのう。一本道だすけ迷いなさることはないども、町を出なさるとの、二股がありますけ、そこをなんでも左へ左へとっておいでなさいや(以上24頁)し。法木作のどちらへおいでなさんすの?」

と、これがおかみさんの答えだが、これに対して「麻生という家ですが――」と答えたことで、当主の喜一郎が前年に死去していたことを聞かされるのである。そして麻生家の位置もソバ屋のおやじに教えてもらう(25頁)のだが、それは後で検討する。
 さて、食事を済ませた主人公は「法木作村に向かって歩きだ」す(26頁)。これに続くところ(27頁)を引用してみよう。

 大きな小学校の校門の前で道は左に折れ、そこからさらに鍵の手に曲った小さな坂を登ると、そのさきは場末らしい小家つづきの長いふんどし町がだらだらと続いた。機織りの機械の音があちこちできこえたが、いずれも小規模な家内工業らしく、家の印をかいた店障子のなかはどこもひっそりとしている。広い桐畑の奥に、板囲いの小さな材木工場があったりした。……。やがて左手に白ペンキ塗りの病院らしい大きな建物のあるところで家並みが尽きると、道はそこから広い田圃のなかへ下っていった。


 ここに描写されるのは県道49号線で、「大きな小学校」は現在の小千谷市小千谷小学校で、地図で見るにここから高低差で10m余登ったところのふんどし町が小千谷市上ノ山(うえのやま)である。病院は今はないようだ。本町にあったという役場ともども、これは古い地図を見て確認する必要があろう。
 以下、しばらく、夏の田園の描写が続く。なかなかよく描けているのだが引用は略す。次に位置を示す記述があるのは、28頁。

 吉谷村という小さな部落のはずれで、道が二股に分かれる。ささやかな道祖神の祠と並んで、「左法木作村 右逃入村」と刻んだ古びた石の道標が立っているあたりから、道は両側に雑木林のせまった、細い陰湿な山あいを登ったり降りたりしていく。……。吉谷村の二股から法木作村まで、道のりはかれこれ四、五キロあったろうとおもうが、そのあいだわたしは、夏繭でも入れたらしい大きな麻袋を馬につけた、百姓の父娘に出会ったきりであった。


 現在の県道49号線(小千谷十日町津南線)から県道56号線(小千谷大沢線)に入り、そして吉谷村の「はずれで、道が二股に分かれ」ているところに着く。ここは現在の小千谷市東吉谷の南部、その名も「二俣」集落の二俣バス停のある辺りであろう。道が2手に、左(南へ直進)は県道56号線、右が県道341号線(大沢小国小千谷線)とに分かれている。県道56号線を直進すると迯入バス停がある「迯入」集落がある。「迯」は「逃」の異体字
 ここまでの道順は問題ない。地図は貼らないのでGoogle mapやYahoo!地図或いは電子国土ポータルなどの地図で確かめてください。問題になるのは道標の文字である。(以下続稿)