瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(09)

 石の道標には「左法木作村 右逃入村」とあった。
 まず「右逃入村」の方であるが、確かに「迯入」という集落はある。「にぎり」と読む。けれども、迯入というバス停があるのは「右」ではなく「左」である。
 ただ、地図で見ると二俣から「右」に進んだ辺りに「迯入」と記されている。「二俣迯入集落開発センター」という施設も「右」に少し進んだ辺りにある。どうも、地図では二俣集落と迯入集落の境界は分かりにくい。この辺りは、地元の人でないと分からないのではないか。或いは、当時の地図を見れば分かりやすいのだろうか。
 そういう訳で「右逃入村」の文字については保留せざるを得ない。
 ただ、1つの可能性として、ここはわざとぼかして書いているのではないか、という疑いを、私は抱くのである。
 すなわち、作者が事実を改変して、実際に即し過ぎないように書いたのだろう、というのである。
 しかし、これは少々危険なやり口なので、分からないことが出て来たら「実際とは違えて書いている」と言って済ませて通るのなら、話は簡単である。――本当はもう少々調べれば分かることを、面倒臭くなって切り上げるときの口上とも成りかねない。
 けれども、私は種々の根拠により、平井氏は左右をわざと変えて書いたのではないか、と睨んでいる。
 法木作村が新潟県には存在しない地名であることは、1月18日付(01)でも触れた。現地に実在しない地名を使ったのは、フィクションであることを示すためであろう。作品の舞台以外では岩沢とか吉谷とか逃入とかの実在の地名を使っているのは、フィクションを実在の地名の中に嵌込むことで、事実らしく感じさせるための道具立てである。実際には地図を確認して読む人ばかりではないから、もっといい加減に書いても構わないだろう。けれども、実際に即することで、何故だか頭の中でそれらしく拵えたのとは違ったリアリティを帯びるのである。
 とにかく、周囲は実在の地名ではっきり書いても、法木作村のモデルの位置は、作者としてははっきり書きたくなかった。だから村の名前を変えた。位置も曖昧にした、のだろう。
 それを、私はここだろうと言おうとしているのだが、少々躊躇も覚える。それは、正直この小説の内容では、現地の人が小説の舞台になったことを誇りとして村興しに利用でも出来るような代物ではないからである。だから作者もぼかしている。それなら私も黙っていれば良いような気もするのだけれども、一応指摘して置く価値はあろうかと思う。飽くまでも小説であって、事実ではない。第一、村の名前が違う。フィクションをまともに取り合う必要はないのである。
 さて、二俣から左(南)へ行くと、迯入バス停を経て、小千谷市真人(まっと)町の市之沢・山新田、そしてバス路線の終点の若栃集落に至る。二俣から若栃まで4kmくらいある。「四、五キロ」進んでも法木作に近い地名はない。
 右(西)へ行くのが県道341号線で、高度差では200mほど登って3.5kmほど進むと標高約300mの道見峠を越えるとすぐ、標高200〜300mの西向きの緩斜面に広がる法末村(長岡市小国町法末)に入る。ここが法木作村のモデルだと思う。
 そう判断する根拠だが、まず、名前が似ている。法末(ほうすえ)を法木作に変えたのではないか。仮名にする場合、実名を一部存して一部置き換えるのが普通である。「四、五キロ」より距離は短いが測りながら歩いた訳でもなく、登り道は距離を長く感じるものだ。駅から「八キロそこそこ」というのは合っていた訳だし。
 加えて、主人公は「吉谷村」の「はずれ」から「法木作村」に着くまで、集落を通過していない。「百姓の父娘に出会ったきり」なのである。
 「左」に進んだ場合、地図を見るにしばらく谷底を通り、少し開けた盆地状の水田を抜けて登りになり、標高220m余の真人町市之沢集落に到達する。ここが法木作村の候補になる訳だが、二俣からの距離は約2.5kmしかなく、法末よりも近くなってしまうし、「吉谷村の二股から法木作村まで」が「両側に雑木林のせまった、細い陰湿な山あい」だという描写とも合わない。この条件には、道標にいう「左」ではなく「右」の方が近いように思う。平井氏が実際にこの辺りを歩いたことがあるのか、それとも大体の土地勘を頼りに地図を見ながら想像で拵え上げたのか、それは分からないのだけれども。
 さて、法末は昭和24年(1949)当時刈羽郡上小国村で、上小国村は昭和31年(1956)刈羽郡小国村と合併して刈羽郡小国町となり、平成17年(2005)長岡市に併合され長岡市小国町となっている。従って北魚沼郡に近接するけれども、「×魚沼郡」ではない。ここもぼかしたのだというべきであろう。(以下続稿)