瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森鴎外『阿部一族』の文庫本(2)

岩波文庫31-005-6『阿部一族 他二篇』(2)
 昭和41年(1966)改版と平成21年(2009)改版を比べてみる。
 1頁(頁付なし)扉、3頁「目次」、5頁(頁付なし)「興津弥五右衛門の遺書」の扉、7頁から本文となっているのは同じ。1頁15行、1行43字。1頁14行、1行36字。は19頁、は22頁まで。「阿部一族21〜71頁23〜85頁。「佐橋甚五郎」73〜86頁87〜103頁。
 斎藤茂吉「解説」87〜98頁105〜119頁。87頁5行め〜90頁12行め105頁6行め〜109頁11行め「興津弥五右衛門の遺書」の解説の最後、

 ついでをもって言う。弥五右衛門の祖父右兵衛景通の年齢は、永正十一年に生まれて、永禄三年に死し、年四十一歳とあるが、永正十一年生まれとすれば永禄三年には四十七歳になるわけである。もし四十一歳の没年を正しいとすると、永正十七年に生まれたことになる。この文庫ではかりにそう直しておいた。また、弥五右衛門の年齢中、文禄四年に生まれ、慶長十七年十九歳、元和七年二十八歳とあるが、これも文禄三年の生まれでないと一致せぬからこの文庫ではそう改めておいた。

とあって、は本文が7頁3行め「永正十七年」、9頁1行め「文禄三年」に改められている。
 こういうとき、西暦という通し番号が便利だと思う。永正十一年(1514)永正十七年(1520)永禄三年(1560)文禄三年(1594)文禄四年(1595)慶長十七年(1612)元和七年(1621)。
 は7頁4行め「永正十一年」のままにして〔十七〕と傍記する。9頁10行め「文禄四年」にも〔三〕と傍記、同じ行の「七歳」の傍にも〔八〕とある。この年齢は文禄四年(1595)のままなら矛盾しないが、は文禄三年(1594)に改めたのだから、確かに慶長六年(1601)八歳としないと勘定が合わない。手を入れるのであれば連動させて修正するべきであった。(以下続稿)