瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森鴎外『阿部一族』の文庫本(3)

岩波文庫31-005-6『阿部一族 他二篇』(3)
 斎藤氏の「解説」は続いて、90頁13行め〜94頁7行め109頁11行め〜114頁6行め「阿部一族」について述べるが、その最後の段落にも次のようにある。

 ついでに言う。竹内数馬の年齢、寛永十五年に十六歳、寛永十九年に二十一歳とあるが寛永十/五年十六歳が正しければ寛永十九年に二十歳のわけだから、この文庫ではかりにそうしておいた。/なお、三八ページ介錯人列記中の松野右京と、六八ページの松野左京とは同一人らしく思われる/が、左京か右京か決しかねるからそのままにしておいた。世人の確かな考証を得ば幸いである。


 引用は94頁による。114頁2〜6行めでは、本文の頁がずれているから、それぞれ「四四ページ」と「八一ページ」に改められている他、太字にしたところの右傍に「注(二)」とある。「注(一)」は昨日引用した「興津弥五右衛門の遺書」の最後の段落の、最後の「いた」の右傍にあった。
 さて、問題の本文であるが58頁12行め〜59頁1行め68頁14行め〜69頁4行めに「数馬は……島原征伐の時殿様の側にいた。寛永十五年二月二十五日……。数馬はその時十六歳である。」とあってこれは一致しているが、62頁4行めが「今年二十歳になる数馬」と改めているのに対し、73頁4〜5行めでは「今年二十一歳になる数馬」と原文のままにしていて、この数字の右傍に〔二十〕と入れている。
 この処置は「興津弥五右衛門の遺書」が弥五右衛門の祖父について「没年を正しい」と仮定して修正を加えたのと基準が違って、今度は「没年」の方を書き換えている訳である。しかしながら、江戸時代の記録では大体がいくつで死んだのかが注意されるので、途中経過を年齢で数え上げる傾向はあまりないと思う。従って、常識的にはむしろ「没年」の寛永十九年(1642)二十一歳の方を基準にすべきなのであって、「寛永十五年(1638)十六歳」の方が、鴎外の計算ミスの可能性が高いのではないか。尤も、「興津弥五右衛門の遺書」では本人が「七歳」「十九歳」「二十八歳」と年齢で、自身の閲歴を数え上げていた訳だけれども。
 これについて、は新たに注を附している。次に、「解説」の最後に界線を挟んで小さい活字で新たに加えられた部分(119頁)を、検討してみよう。(以下続稿)