新田原にいつ戻ったか、などというのは詰まらないことなのだけれども、こんなことに引っかかるというのも『比島の悲劇』を「一部加筆訂正」して『大本営参謀の情報戦記』になるのか、という疑問からである。すなわち「加筆訂正」だとして、新田原に戻る件を、わざわざ省略する必要が、あるのだろうか。
『比島の悲劇』からの引用は「十月十六日、フィリピンのクラーク飛行場に到着した堀少佐」(書籍版184頁14行め)が、マニラ市内の旧軍司令部を訪ねるところが最後である。着いてみると堀少佐が新田原から大本営に送った緊急電報の内容は伝わっておらず、大本営発表のラジオ放送を信じ切っているのであった。ここの引用はかなりの長文(書籍版184〜187頁)で、大戦果に安心しきった旧軍司令部幕僚室の様子が台詞を交えて生き生きと(?)描写されている。
ところが、『大本営参謀の情報戦記』では文庫版166頁「十五日朝新田原を出発、午後マニラに着陸するところを手前のクラーク飛行場に着陸した」堀氏は、途中上空から見た台北飛行場やクラーク飛行場の様子から「米軍の上陸近し」との勘を得て、単行本142頁・文庫版168頁「十六日中に南方軍総司令部と第四航空軍司令部、十七日朝南西艦隊司令部と足早やに廻って、まず現在の状況を把握することに努めた。そして、ここで初めて大本営海軍部発表の台湾沖航空戦の“戦果”を知った」ことになっていて、以下「大本営海軍部発表は次の通りであった」として単行本142〜144頁・文庫版168〜169頁に戦果の発表を並べている。
従って、『比島の悲劇』のような、旧軍司令部の将校たちから大戦果について聞かされる場面は存在しない。そのことによって「マニラでの第一日」めに「私の書いた電報の意味なく葬られた失望」(書籍版186頁)、それも「この時ほど私は失望したことはない」(書籍版184頁)という程の失望を覚えたという、そんな展開にはなっていないのである。
そこで思うに、「加筆訂正」だとしたら、なぜこの旧軍司令部の場面をごっそり削除してしまったのだろうか。
本当なら全体にわたって検討するべきなのだけれども、書籍版にある『比島の悲劇』からの引用はここまでで、その後どのように展開しているのかは分からない。しかし、書籍版に引用されている箇所を照合しただけでも、大体『大本営参謀の情報戦記』に重なっているけれども、何だか違うのである。例えば今日見たところでは、フィリピンに着いた日付が違う。『大本営参謀の情報戦記』は昭和19年(1944)10月15日午後だが、書籍版の方では10月16日となっている。但し原文の引用ではなく辻氏執筆の地の文である。そしてその日のうちにマニラ市内の旧軍司令部に顔を出しているように読める。旧軍司令部というのは当時「寺内元帥の南方総軍司令部」は「マニラ郊外のケソン」に疎開していた(原文。書籍版185頁)からで、マニラ市内のもと南方総軍司令部のあったビルをこのように呼んでいるのである。『大本営参謀の情報戦記』には「南方軍総司令部」とのみあって、どちらだか分かるように書いていない。だからケソンの方だと考えるしかないが、だとするとマニラの旧軍司令部を訪ねての一件は、完全になくなっていることになる。(以下続稿)