瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

幸田露伴『五重塔』の文庫本(3)

 ③桶谷氏「解説」は、次のように書き出している(117頁)。

 幸田露伴は、明治二十二年から二十四年にかけて、求心的な文体をつよめていって、/そういう求心性のつよい文体と釣り合う構成の佳作、秀作をのこした。
 『五重塔』はその頂点に達した秀作である。


 これで『五重塔』の執筆時期は大体分かるのだけれども、はっきりと何年とはどこにも書いていない。②鹽谷氏「解説」が最初に述べているように明治24年(1891)から25年(1892)に新聞に連載されたのだから、明治22年(1889)から24年では少々ズレている。別に新聞小説だったことまで書かずとも構わないにしても、カバーカット使用されている「初版本」が何年の出版なのか、それから何という題だったのか、桶谷氏の解説はもちろん、他の箇所にも示されていないのは如何なものか。露伴の生没年はカバー表紙の紹介文に(1867−1947)と示されているのだけれども、やはり、基礎的な情報は欠かさぬようにしてもらいたい。いくら簡単に調べられるようになったとは言え。
 その点、②鹽谷氏「解説」は行き届いている。その最後、96頁6〜10行め、

 文庫本「五重塔」は昭和二年七月の岩波文庫發刊と同時に出て、幸田家と岩波書店の友情の紀/念として三十年間岩波文庫の獨占するところであった。故漆山天童氏の解説は名文の聞えが高か/ったものであるが、今囘三十八刷に際して新全集版を底本として改版することになったので、書/店側の希望によって解説をもあらたにした。されば漆山氏の文の一部を抄して結語に代える。

として、96頁10行め〜97頁13行めに引用している。天童漆山又四郎(1873.1.6〜1948.8.5)は露伴の弟子で、やはり岩波書店から出た「舊全集」編纂の中心人物だった。この漆山氏の解説は、近代デジタルライブラリーの岩波文庫59『五重塔』でその全文を読むことが出来る。この国会図書館所蔵本は、表紙は左からの横組みで「幸田露伴作」になっている、奥付に「昭和二年七月一日第一刷發行/昭和二十三年十月二日第二十刷發行」「五重塔/定價參拾圓」とあるもので、本文は94頁までで①複製に一致、最後は奥付とその裏に岩波茂雄「讀書子に寄す」であるが、この奥付の前、白紙があってその前の95〜97頁に漆山天童「『五重塔』に就いて」がある。鹽谷氏の引用には振仮名が若干附されているが、原文には「邪無き」に「よこしまな」と振られている他、鹽谷氏の引用にもある白丸の傍点があるのみである。
 鹽谷氏が引用しているのは、第二十刷では95頁8行めから96頁1行め(3字め)までの6行半と、96頁9行めから最後、97頁6行めまでの12行半で、「一部」と云いながら33行のうち19行余が引用されていることになる。漆山氏の文の最後、「今年七月又々本文庫によつて世に弘くなつたのは大いに賀すべき事であるとおもふ。」とあるのだが、これによりこの漆山氏の文は昭和2年(1927)のうちに書かれて、追加されたことが察せられる。先に新潮文庫について「解説」の追加を指摘したが、昔の文庫本にはこういうことがよくあったもののようである。
 ①復刻では本文の次が奥付で、その次の見開きが「讀書子に寄す/岩波文庫發刊に際して」で太線の匡郭、岩波茂雄ではなく「岩波書店」名義。その次「岩波文庫」の紹介、上下2段組で定価の説明など、それから上下2段組の目録が4頁で初めは創刊の書目で31点、2頁めの下段の途中から「以下近く刊行の豫定」で45点。
 ②は1頁白紙があって奥付、その裏が岩波茂雄「読書子に寄す」、目録は「'89.9.現在在庫 B-1(〜4、A-1〜3、C-1〜3)」と「岩波文庫の最新刊」の「1989.9」と「1989.10.」。
 ③は奥付の裏に岩波茂雄「読書子に寄す」、目録類はない*1

*1:2013年7月9日追記】第105刷と第112刷の奥付はそれぞれの発行日が異なるのみで一致。