瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

謬説の指摘(1)

 私は古典文学研究をやっておったのですが、そのとき、驚いたのは、古典の本文に基づかない、妙な理屈を展開した「論文」が少なからず存在することでした。本文を読む限りではこんな解釈は出来んだろう、と云うようなことを堂々と書いている。何故こうなったのか、しばらく疑問だったのですが、こういう論文に慣れて来てから考えてみるに、――どうも、本文よりも、「先行研究」に基づいて自説を組み立てているからで、肝心の本文はと云えば、自説に合うところだけを都合良く摘み食いしている、ということらしいと、鈍い私も気付いたのでした。
 正直、本文の読解に資するところのないような「論文」なのですが、こういうものが意外と少なくないのです。
 まぁ、「論文」なんてものは、「先行研究」の言っていないことを言えば、良い訳です。ですから、差し当たり「先行研究」を点検して、その見解に同意しかねるところがあれば、それが「論文」の種になります。同意しかねる部分があるくらいなのですから、その「先行研究」は肝心なところに限らず全体的に危なっかしいものであるかも知れないはずなのですが、肝心なところだけに突っ込みを入れて、本筋でないと思われるところはそのまま踏襲している、そんな書き方をしている「論文」もあります。
 それから、「先行研究」として、A氏の説と、B氏の説と、両立し得ない2つの説があって、A氏説が成り立つならB氏説は完全に否定されないとおかしいのに、何故かA氏説とB氏説の折衷案を自説として提示している「論文」もあるのです。これも私にとっては何故こんな気味の悪いことをして平気でいられるのか、理解不能だったのですが、だんだん、どうしてこうなるのかが、分かって来たのでした。
 大学入試に小論文が課されるようになって、私なども国公立大学の入試で小論文で受験したことがあるのですが、あれは、もちろん幅広い知識があるに越したことはないが、高校生の誰もが何でも知ってるはずはないので、要するに、ある程度、物を知っていて、それを、それらしく「まとめる」能力を見ているのでしょう。どうも、この小論文のような感じの「論文」が、少なくないように、思うのです。
 いえ、推薦入試とかAO入試とか、小論文を課す入試が増えたからそういう「論文」を書く研究者が増えた、と言いたいのではありません。そうでなくても、評価される「論文」を書くのが仕事なのですから、自然とそういう風に、器用にまとめるようになって行くのだろうと思うのです。
 その結果かどうか、――自分の揃えた材料だけで辻褄を合わせて尤もらしく筋を通してしまう、という「研究」が少なからず存在するのです。私などは疑り深い性格で、無駄な知識もそれなりに蓄えて来ましたから、いくら尤もらしくても次々と疑問点を見付けてしまうので、そういう小器用にまとめられた「論文」を読んでも、ここは突っ込みが足りない、これについてはどう思ってるのか、などと、何とも言えない気持ち悪さを感じて、だから最近は「論文」やら「評伝」やらを読むのが億劫でならないのですが、どうも、世間には素直な読者が少なくないらしい。私が一々引っ掛かったことを特に気にする風でもなく、褒めていたりするのです。「論文」の場合、査読というものがあったり、大学院生の論文なら指導教授のチェックが当然入っていると思うのです*1が、どうも変な「論文」が少なくない。しかしそういうものを、専門家であるはずの人が褒めていたりする。かつ、専門家と云われる人がそんな風な文章を書いていたりする。専門家にして既にそうなのですから、ネット上に自由に発表された感想が、実は怪しい「研究」を、そういうものだということに気付かずに絶賛している、というのは、仕方がないことなのでしょう。
 とにかく、先行研究を始めとする関係文献を細大漏らさず集めること、そこから始めるよりないのに、安易な論文は現在定説・通説となっている大家の論文に対する疑問から出発して、その反論と自分の考えを述べて行くという作業だけで済ませてしまっています。それも満足に出来ていないようなものもあるのです。しかし、定説などというものは、その説が発表された当時に、その説が良いと思った人が多かったために、なんとなくその解釈が通説になってしまっただけ、であるようなものも、実は少なくありません。ですからしばしば、目立つ人(大家)の、目立つ媒体に発表された説が(実は宜しくないものであっても)その(検証もされない)まま定説化していることが多いのです。逆に、優れた論文であっても、当時あまり注目されていなかった主題だったり、発表媒体があまり人目に付かないものだったりして、発表時に全く注目されないと、そのまま埋もれてしまうケースが少なくないのです。そのため、戦前の論文に既に明らかにされていたことが、戦後先行研究に気付かずに同じことを指摘した人が出て来て、この不注意な人物の方が、その説の提唱者のように扱われてしまう、などということが、実際にいくつも発生しているのです。
 私は、このようなケースを周知させないといけない、と考えています。(以下続稿)

*1:「見せろ」と言いながら見ていない(らしい)という話も複数聞いていますが。