瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

謬説の指摘(4)

 「批判」に腹を立ててしまうような「先生」が、万事このような頑なで、権威主義的だったりしたら、話は単純なのですが、そうではありません。自分に「論」のある事柄については、話が出来なくても、そういうものがない題目に関しては、驚くほど鋭い判断力を示したり、するのです。……「逆鱗」に触れない限りは、申し分のない、良い先生だったりして。――単純に割り切れないから世の中は厄介なのですけれども。
 だからと云って、遠慮するのが良いことなのでしょうか。良くはないでしょう。ですから、個別に、もっと気楽に「いけない」ことを言えるようにすれば良い、と思うのです。しかるに、世の中には、一部「いけない」ところについて意見すると、全体を否定されたかのように落ち込んで、話が通じなくなる人がいます。そこは「いけない」が、全体としたら「よい」、けれども「よい」論にするためには「いけない」部分をもう少し頑張ってもらわないと困る、というケースでも全否定されたかのように落ち込む。「悪口」と「批判」の区別ではありませんが、そこが混ざっている人が多いのも、厄介なところです。
 しかしながら、思い込みから自由な人はいません。誤読もありがちなことです。すなわち、間違いがあることが前提なので、それをもっと簡単に公表出来るようにすれば、良いと思うのです。そして、論を立てても絶対など有り得ず、現時点で分かっていることを綜合して得られたものに過ぎないのですから、新資料が提示されれば*1、従来の論がそのまま成り立つかどうか、常に“検算”をしないといけません。従来の説を補強する場合と、否定する場合があります。
 しかし、この辺りの手続きが、そもそも文学の論文では曖昧なまま来ているのです。小松英雄が批判していたかと思いますが、両立しない説がそのまま積み重ねられている。先行のA説と両立しないB説が新たに提示された場合、A説は否定されないとおかしいのですが、そこが分かりにくく書いてある。例の、「分かる人に分かれば良い」という書き方です。従って、A説は特に否定もされないまま「一説」として生き残り、後発のB説の方が正しかったとしても、発表当時あまり学界内にアピールしなかったりするとこれもまたA説と同等か下手をすると(A説が通説となっている場合)それ以下の「一説」になります。
 従って、生き残った説とそうでない説の差は、発表当時注目されて、広まったかどうか、という曖昧な基準で、十分に比較検討した結果、蓋然性が高い、と認められたとかいう訳でないケースも、実際少なくない訳です*2。埋もれた説も、別に悪いと批判されて埋もれたのではなく、なんとなく注目されなかっただけのものも、少なくありません。そんな訳で、特に良いのか悪いのか判断が示されないまま、十分整理されないまま“成果”だけが積み上げられていきます。後発の人が真面目にやろうとすると、まずその蒐集と選別に大変な労力が必要になってしまうはずですが、ここに通説・定説だけ参照して、安易に立論するようなやり方を採る連中がいるのです。いよいよどうでも良い論文が、数だけはさらに積み重なっていくことになります。
 そこで、取り柄のない論文は、その旨をはっきり明示して、潰していかないといけないと思うのです。最近、データベースの整備が進んだことで、過去の雑誌論文の検索が容易になりました。それに伴って、不運にも埋もれてしまった論文が再評価される機会に恵まれるとすれば良いのですが、逆に、当然埋もれるべき駄文にも触れる機会が増えてしまった訳です。埋もれていた「いけない」考えが掘り出され、通説・定説しか調べないような連中によって安易に「再評価」の論文などが発表されたりしたら、それこそ堪ったものではありません*3

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 「いけない」説が「いけない」とだけ言えないこと、何か対案を出さないといけない、という雰囲気は、妄説が妄説を産む、という悪循環を一部に生じさせている訳ですが、よく考えもせずに「よい」説のつもりで「いけない」説を発表する人が絶えません。「いけない」先行研究に基づいて、本文に基づかない「いけない」説を出してくる手合いも絶えないのです。それでいて「いけない」説を発表しても対案を用意しなければ批判も出来ないのだとしたら、「言ったもん勝ち」ということになってしまいます。とにかく発表してしまう。ただでさえ論文の数が少なくないのに、妙な物が量産されたら困るのですが。いえ、総浚えをしないと気が済まない性格の人間にとっては、大変な苦痛・苦行です。そうなると、いよいよ先行研究の確認を怠って通説に小器用に反対して、尤もらしい思い付きを出して見せるような書き方をして、点数を稼ぐような方向に、若手を仕向けることになりそうです。若手はとにかく点数を稼いで生き残りを図らねばならないのですから。
 だからこそ、「いけない」説は「いけない」と、どこが「いけない」のか根拠を示した上で批判しないといけないと思うのです。ところが「金持ち喧嘩せず」の論理で動いている学界は、「分かる人が見れば分かる」ようにして置けば良い――「いけない」ことを批判せずとも別に「よい」説を発表して置けば良い、という理屈でとにかく「いけない」説は「相手にしない」――放置して済ませようとします。けれども、狭い世界とは言え、必ずしも事情に通じた人だけが読む訳ではありません。何かのついでに確認の必要があって専門外の人が紀要論文を参照することだってある訳です。それに、細大漏らさず先行文献を蒐集した上で立論するような研究者ばかりでないことくらい、分かってるんじゃないのか。それなのに分かりにくく「分かる人に察してもらえる」ように書いていては、研究は「分からない人」によって混乱・後退させられる危険性を、常に孕んでいなければなりません。(以下続稿)

*1:全く未知の資料だけでなく、既知の材料でも従来その主題に参照されていなかったものに関連が認められ、合わせて考えるべきものとして改めて提示される場合もあります。

*2:今日たまたま図書館で手にしたキネマ旬報社 編『黒澤明キネマ旬報セレクション)』(2010年4月16日初版発行・定価2,200円・キネマ旬報社・349頁)129〜176頁、第三章「キャストインタビュー」8本のうちの1本め(130〜138頁)、藤田進「俳優を非常に大事にする人です」(インタビュアー 水野晴郎、85年3月下旬号)に「藤田 映画って不思議なもので、どんなにいい作品ができても、興行的に成功しないと、いい作品として評価されない。」との発言(131頁)があるが、文学の論文でも同じである。

キネマ旬報セレクション 黒澤 明

キネマ旬報セレクション 黒澤 明

*3:そこまで大事にならないとしても、ネット上にはたまに、検索したら全集未収録の作品が出て来た、との報告があって、その直後に、改題の上、既に全集に収録されていますよ、などというコメントが付いたり、と云った例が散見されます。この雑誌記事のデータベース化が進んだことで、加筆改稿改題の上、単行本に収録された決定稿よりも不十分な初出が「再評価」されてしまう、などの例も、実際に発生し出しているようです。どこかに再録されていないか調べるのも、必要な手続きだと思うのですが、どうも最近の論文は初出のみを参照し、それ以上調べていないものが少なくないように思われるのです。