・東京伝説の会編『東京の伝説』(2)
8月7日付(45)の続き。
142頁4〜8行め。
七人の坊さまは、
「もはや、背に腹はかえられぬ、生きのびるた/ めには、殺生もやむをえぬ。」
と、六わのハトを射落としました。そこは、六/羽ケ尾とよばれています。*1
142頁の上半分は白黒の挿絵で、7人の坊主のうち2人が弓を手にして、1人は矢を番え、1人が放った矢が白鳩に命中したところ、他に逃げていく白鳩が2羽。
さて、鳥を捕る話は、8月9日付(46)でも見たように浅沼良次編『八丈島の民話』にもあったが、ここの記述は矢口裕泰「〈資料/報告〉八丈島中之郷の伝承―昔話を中心に―」の2011年11月20日付(19)に引いた19・七人坊主の話③に近い。矢口氏の報告は「六羽鳩を撃った」であるが、鉄砲など持っていなかったろうから弓矢を拵えたと考えたのだろう。ここで疑問なのは「六羽ケ尾」という地名で、矢口氏の報告では「ロッパがオバタ」であった。矢口氏は「おばた」の意味を説明をしていないが、八丈方言「オバタ」は、2011年11月23日付(22)及び2011年11月30日付(27)で触れたように「峠」のことである。
さて、本書では逃げた船頭の船を沈めて後、鳩を射落とすという展開になる。すなわち水よりも食べ物を優先したことになっている。漂流に近い航海を経て、空腹も耐え難いものがあったのだろうが、2011年10月22日付(09)で見た小寺融吉「八丈島の話」、それから2011年10月19日付(06)で見た浅沼良次編『八丈島の民話』、そして2011年11月19日付(18)に引いた矢口氏の報告の19・七人坊主の話②も、上陸後まず、海岸にいる間に水を求めているのだが、恐らく矢口氏の報告に依拠しているらしいのに望月氏はこのコミノ川(小刀水)の話を採用していない。
それは、望月氏が7人の最期を次のように設定したためであろうと思われる。142頁9行め〜143頁4行め、
さて、坊さまは、山の上からおりると、こんど/は、水をさがしました。
ところが、いっても、いっても、地面はから/からにかわいていて、ひとしずくの水も見あた/りません。
「ああ、せめて、冷たい水を飲んでから、死に/ たいものよ。」*2
歩きつかれたひとりの坊さまが、さいごの力/をふりしぼって、地面につえをつきさして、い/のりをささげると、なんと、そこから、こんこんと水がわきだしました。
「やれ、うれしや。ぞんぶんに飲んで、この世の別れとしよう。」
七人の坊さまは、わき水でからだを清めると、水を飲み、重なり合うように死んでしまいまし/た。そこをだれということなく、果てケ淵とよぶようになりました。*3
水にありついたところで死なせる展開にしたために、鳩を射落とす場面を先にしたのであろう。それにしても、生き延びるために殺生も厭わなかった坊主らしからぬ潔さである。
死に場所が水辺であったというのは、2011年10月19日付(06)で見た浅沼良次編『八丈島の民話』、2011年11月8日付(15)で見た矢口氏の論考「島の昔話伝承――八丈島中之郷を中心に――」にも見える。但し「果てケ淵」ではなく「ハテイの川」である。これは2011年12月17日付(32)等で触れたように、中之郷ではなく末吉の地名らしい。
とにかく、「ハテイの川」では死んだというだけで、坊主が湧き出させたという説明は(今のところ)他の文献に見当らない。(以下続稿)