朝倉氏が、『ヤクザ・風俗・都市』82頁3〜4行め、別冊宝島スペシャル「伝染る都市伝説」238頁8〜9行めに「もうひとつ、資料をあげておこう。北杜夫の年代記的長編小説『楡家の人びと』*1に、次のようなクダリがある。」として引用している北杜夫(1927.5.1〜2011.10.24)の『楡家の人びと』ですが、私は2011年1月1日付「森鴎外『雁』の年齢など」に書いたような理由で有名な作品を読まなかったので、読んでいません。短篇を読んでも突っ込みまくってしまうのに、長篇を読んだら抜けられなくなりそうで、それで長篇小説も避けていました。しかし今回必要(?)に迫られて部分的にですが確認してみた範囲でもなかなか面白そうなので、もう少し余裕があれば読んでみたいと思ったものでした。
・新潮文庫1966『楡家の人びと(上)』昭和四十六年五月二十五日発行・平成六年二月二十五日四十七刷改版・平成十八年二月十五日五十七刷・定価629円・461頁
- 作者: 北杜夫
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彼女たちが一年生の折、街に一過性の流言蜚語が流れたことがある。「赤マント」と呼ばれ/る癩病患者の怪物が出現し、若い女の頸に牙を立てて生き血を吸うというのである。東洋英/和女学校に於ては一時その噂で持ちきりだったが、ほどもなくアコ、つまり楡藍子がその正/体を見とどけたのであった。彼女は夕暮に自宅のそばの青南小学校のわきを通りかかった。/するとポストのわきに一人の小柄な老婆が、黒いインバネスのようなものを着て佇んでいる。/老婆の顔は見るからに上品げで、しかし神のような直感力に恵まれた楡藍子はなにかしら不/吉な予感に襲われ、老婆が誘うように微笑みかけたとき、その唇から犬のようにとがった歯/がちらりと覗いたのを見遁しはしなかった。彼女はすぐ横町に折れて後をも見ずに逃げ帰っ/たが、そのとき身動きをした老婆のマントの裏地――血塗られたように不気味な赤い裏地を/たしかに見てとったのだ。*4
「顔が崩れているとか、醜悪だとか、そういう噂はまるっきり嘘なのよ」と、藍子は校庭で/クラスじゅうの者に囲まれながら、報告した。「優しい優しい顔をしているのよ。そこが赤/マントの怖ろしいところだわ」*5
このようにたわいもない藍子の作り話のなかには、誰にも知られない代り、どうしても罪/がないとは言われないものもあった。まだ小学生のころ、‥‥
さて、朝倉氏はこの件について、以下のようにコメントしています。『ヤクザ・風俗・都市』82頁16行め〜83頁9行め、別冊宝島スペシャル「伝染る都市伝説」239頁4〜14行め、
北杜夫において赤マント話は、昭和十二、三年の出来事に擬されているが、ここで印象的な|のは/「赤マント」*6その人というよりも、噂を卓抜な構成力で再精製するアコの姿である。彼女|は、あちこ/ちの学校、学級に無数に散在していただろう、流言活性化のキーパーソンのいわば|ヒナ型。
もって生まれた直感力、水晶のように透明な好奇心、人なつっこさ、わがままと並行した思|い込み/の強さ、その延長線上に形成されてサービス精神とないまぜになった作話癖、といった|ことどもを総/動員して、いかにも晴れがましく噂の再生に一役買うのである。誰にたのまれた|わけでもないのに。/そして「学校の怪談」の沸き立ちにも(年齢層は少し下がるが)アコちゃん|のような女の子たちの、/ここを先途のおしゃべりが多大の寄与をなしたことは想像に難くない。*7
あるいはこうした女の子の“才能”を、日常において輝かせておきたいという集団心意が、|「怪談」*8/を盛行させたのだともいえるだろう。
これはまさに近藤雅樹のいう「霊感少女」そのものですが、私が問題にしたいのはそこではなくて、朝倉氏が「北杜夫において赤マント話は、昭和十二、三年の出来事に擬されているが」としている点です。
『楡家の人びと』は朝倉氏のいうように「年代記的小説」で、かなりしっかり年立てが設定されています。この場面の少し前、第二部第八章(下巻88頁4行め〜116頁12行め)から時期が分かる記述を抜き出して見ましょう。年齢については頭から通して確認しないといけないので、資料になるとは思いましたが抜きませんでした。
・89頁2行め「 昭和十四年の一月、破竹の勢いで勝ち放してきた横綱双葉山が、‥‥」。
・94頁16行め「昨昭和十三年」。
・97頁5行め「 そしてその六月下旬、‥‥」。
・104頁11行め「 その夏の箱根滞在中、‥‥」。
・111頁2行め「 ――しかしその夏の終わり、‥‥」。
・112頁8行め「 例年の仕事から解放された徹吉は、子供たちと一緒に八月の末に東京へ戻った。‥‥」。
・113頁6行め「 九月の末、‥‥」。
・116頁11〜12行め「 そのようにして下田の婆やが確実にやってくる死の手にゆだねられている間、九月一日の/朝まだき、ドイツ軍はポーランドの国境を突破し、新しいヨーロッパの大戦が発火していた。」
そして、第二部第九章(下巻116頁13行め〜142頁8行め)。
・116頁15行め「 と、昭和十五年の二月中旬のあるひどく寒い日、‥‥」。
・121頁13行め「 春がきて、待ち望んでいた学士院賞の発表になった。‥‥」。
・122頁2〜4行め「 東洋英和女学校の地下室の薄暗いクローク・ルーム――生徒たちはクロック・ルームと呼/んでいた――で、クラスメートと間断なくしゃべりちらしながら、この春から三年生になっ/た楡藍子は帰り支度をしていた。*9」。
・129頁9行め「 この年、日本は聖戦四年目を迎え、かつ皇紀二千六百年の祝典を迎えようとしていた。‥‥」。
・130頁2行め「 中学校の入学試験にしても、この年から新考査法がとられ、‥‥」。
・136頁5行め「 しかし、藍子も周二も、その夏のしばらくを‥‥」。
・139頁17行め「 その城木に、たしかこの正月、‥‥」。
・142頁7〜8行め「‥‥その七月に初めて正式に採用された、のちにゼロ・ファイター/として世界に知られるようになる零式艦上戦闘機一一型の姿であった。*10」
この2章を確認しただけでも、ほぼ順を追って記述されていることが分かります。問題の楡藍子は昭和15年(1940)春に東洋英和女学校の三年生になっています。すなわち彼女が「一年生」であったのは、昭和13年度なのです。従って、この「出来事」は「昭和十三、四年」とすべきで、朝倉氏がこれほど明白に確認出来る年立てを敢えて「昭和十二、三年」としたのは「赤マント伝説」は「昭和十一年」に帝都を席捲したという自分の考え、というか思い込みに合わせるための、作為としか思えないのです。「昭和十三、四年」としてしまうと否定したばかりの『紙芝居昭和史』の方に近付いてしまう訳で、そこで「昭和十二、三年」とした上で、さらに「擬されている」つまり「仮に当てられている」と、駄目を押している訳です。
しかし、記憶には1〜2年のズレが付き物であるにしても「昭和十二年」では楡藍子が東洋英和女学校に入学するより前のことになってしまいます。10月24日付(3)で見た北川氏の「昭和十一年」と同様に、可能性としてまず有り得ない年なのです。北川氏の「昭和十一年」は朝倉氏の誤りではないので仕方がないとして、この『楡家の人びと』については、敢えて言わせてもらうなら《詐術》めいたものを感じざるを得ません。週刊誌記者として朝倉氏が身に付けていた《技倆》と云うべきでしょうか。
ここでまたしても結論の先取りになりますが、実は「赤マント」の吸血鬼の噂は、北氏が書いている通り昭和13年度に広まったのです。そのことを複数の確証を挙げて説明する準備は既に出来ていますが、その前に、朝倉氏が逸している「赤マント」についての最重要文献、小沢信男「わたしの赤マント」についての検討を、先に済ませて置くこととしましょう。(以下続稿)