瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(286)

北杜夫の赤マント(1)
 北杜夫『楡家の人びと』に取り上げられている赤マント流言を論考に活用したのは、本田和子(ますこ。1931.1.15生)が最初ではないかと思うのだけれども、本田氏がどのように取り扱っているか、当ブログでは2013年11月20日付(30)2018年9月3日付(161)の註に触れただけで、まだ取り上げていませんでした。7年前に初出誌を見ているのですが、急いで取り上げる必要はないように思ったので、そのままにしてしまったのです。
 それはともかく、私は北氏の情報源に興味があって、それは何故かと云うと、斎藤宗吉少年(北杜夫)は当時この流言に接していないと思われるからです。この辺りのことは2014年7月14日付(140)に匂わせて置きながら、そのままになっていました。――すぐにでも記事にするつもりだったのですけれども、北氏も五木寛之と同様に過去の回想を繰り返し書いていて、それを揃えて書こうと思って、しかし私は要る本のみ図書館から借りて来てやっておりますので、返却期限その他の事情で、上手く揃えられないでいるうち、結局全ての本を返してしまって、――ならば、複写を取るとか、入力して置けば良いだろう、と思われるかも知れませんが、複写を取ったら本を買う以上に整理が面倒になるし、入力しなかった部分を参照する必要が生じたりするので、やはり作業をする間は手許に置いて置きたいのです。しかし、買っていたら本棚もお金も幾らあっても足りないので、借りて済ませている訳です。
 しかし、コロナウィルス以降、学生時代以来使っていた23区の図書館に、職場が都内でなくなって以来交通費を払って通っていたのを止めて、地元・近隣市の図書館と、23区の図書館は1箇所だけ、自転車で通うことにして、後は職場の近所の図書館で済ませることにしました。それでは足りないところ、あそこに行けばあるんだが、と云ったことがあるのですが、余り手広くするのはもう止めにしようと思った次第です。
 ですから、2014年7月14日付(140)に匂わせて置いた件も、手っ取り早く済ませて置きましょう。今、2014年7月29日付「北杜夫『楡家の人びと』(09)」にて参照した、KAWADE 夢ムック 文藝別冊「追悼総特集 北 杜夫 どくとるマンボウ文学館」が手許にあります。その斎藤国夫作成「北杜夫略年譜」の、222頁上段16~17行め「1939年(昭和14) 12歳」条に「1月、急性腎炎にかかり、3学期を全休する。」とあるのです。東京で赤マント流言が広まった2月下旬、当時青南尋常小学校の5年生だった北氏は学校を休んで寝ていたので(本当は本人の記述を引きたかったところなのですが)学校ではこの流言に接していないのです。
 それで、姉の体験と云うことにして、しかも、その当座ではなく、2013年10月26日付(005)に見たように、高等女学校1年生(昭和13年度)の3学期のことを、3年生(昭和15年度)のところに書いている。リアルな体験として書かれていないのは、北氏がこの流言の恐怖を肌身に感じる機会を逸したためでしょう。
 ところで、流言の内容ですが、『楡家の人びと』の楡藍子のモデル・百子は、古寺多見のブログ「kojitakenの日記」の2014-04-06「北杜夫『壮年茂吉』を読む」に引かれている北杜夫『壮年茂吉』に拠れば*1、『楡家の人びと』の第二部、赤マントの記述のある辺りが雑誌に発表される5年ほど前に死去しています。従って、執筆に際し姉に赤マント流言について確認することは出来なかったはずで、①姉からしばらく後に、実際にこのような内容の話を聞かされたのか、②「新聞」等を調査したり他の人から聞いた話から作り上げた内容を、姉のこととして書いたのか、色々可能性は考えられますが俄に決められません。各地の文学館で開催された北杜夫展に出品されていた『『楡家の人びと』創作ノート』を参照出来れば、何かその辺りの手懸りが得られましょうか。(以下続稿)

*1:『壮年茂吉』は実家にいた時分、父が定期購読していた「図書」で初出の「茂吉あれこれ」を毎号読んでいて、その後、近所の図書館で廃棄処分になった単行本をもらって来たはずなのですが、探せなかったので古寺氏のブログのお世話になった次第です。