瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(4)

 朝倉氏は『現代民話考』の次に加太こうじ『紙芝居昭和史』を引いています。
・単行本(昭和46年7月10日初刷*1発行・定価640円・立風書房・283頁・四六判上製本
岩波現代文庫(2004年8月19日第1刷発行・定価1200円・岩波書店・322頁)

紙芝居昭和史 (岩波現代文庫)

紙芝居昭和史 (岩波現代文庫)

 朝倉氏が参照しているのは勿論単行本(1頁18行、1行45字)の方ですが、岩波現代文庫(1頁17行、1行40字)も参照して置きました。「赤マント」についての記述があるのはその名も「軍国紙芝居と赤マント」という章(単行本135〜154頁・文庫版141〜163頁)で、その最後の方に次のような記述があります。単行本151頁4行め〜152頁・文庫版159頁3行め〜161頁3行め、単行本の改行位置を「/」で、文庫版の改行位置を「|」で示しました。

 私に関しては昭和十五年の赤マン|ト事件がある。昭和十五年の一月頃|だったが、赤マントの人さら/いが出|没して子どもをさらうとか、少女に|暴行して殺すとかいうデマが流れた。|そして初夏に大阪の/警察が私の作っ|た紙芝居をそのデマの原因であると|して押収して焼却した。このことは|画劇会社に警/視庁から通告してきた。|田辺常務は私をよんで、今後、デマ|の原因になるような紙芝居は作らな|いで/くれと注意した。
 しかし、それはまったくのいいが|かりであった。なぜならば、デマは、|東京の日暮里駅近くの谷中/墓地に隣|【文庫版159頁】接したあたりで、少女が暴行を受けて殺害された事件から発していた。そのとき、そのあ|た/りで私が作った赤マントの魔法使いが、街の靴磨きの少年をさらっていって、魔法使い|の弟子にする/物語の紙芝居をやっていた。題名はわすれたが、内容は芥川龍之介の『杜子|春』を換骨奪胎したもの/で、紙芝居屋がある紙芝居としてはもっともまじめで教育的な作|品のうちにはいる。杜子春の仙人に/当たるのが赤マントを着てシルクハットをかぶった魔|法使いで、杜子春が父と妹を養う貧しい靴磨き/の少年になっているだけだった。その魔法|使いが赤マントを着ていることが、現実の少女暴行事件と/結びついてデマの発生になった|らしい。
 紙芝居の絵は東京で使うと横浜から東海道の主要都市を経て大阪へいく。その絵が移動|する順路と/時間が、赤マントの人さらいのデマが流布する順路と時間にうまく一致してい|た。そこで、この紙芝/【単行本151頁】居がデマの原因らしいと、単に画面だけで判/断されたらしい。ある|いはデマにピリオドを/打つために押収したのかもしれないし、警察/が手柄をあげるために|デマを紙芝居のせいに/して、適当な証拠としてデッチあげて私の紙/芝居を押収したのかも|しれない。
 赤マントのデマは、いつ終るかわからない/日中戦争のために子どもの世界にすら不安感/|が生じたことと、何かといえば忠君愛国をい/われるので、子どもたちがエロ・グロなどの/|強い刺激に、抑圧された気持のはけぐちを見/いだしたために流布されたとも思われる。【文庫版160頁】
 私は赤マント事件で田辺に注意されたのが/おもしろくなくて、それからは紙芝居の仕事/|にあまり熱心でなくなった。そして、七月に/は上総一の宮へ親しい知人が避暑のための家/|を借りたので、同居させてもらうことになっ/て房州へいくことになった。


 単行本152頁の上部25字分・文庫版159頁の上部24字分(若干縮小)に、シルクハットに燕尾服の紳士が右手に杖を持って、腹這いに近い恰好になった少年とともにマントの上に乗って近代都市の上空を飛翔するイラストがあり、その下に横組みで「『赤マント』」のキャプションがあります。
 さて、朝倉氏は最初から「‥‥紙芝居をやっていた。」までを引用、途中「‥‥押収して焼却した。(中略)しかし、それはまったくの‥‥」と常務から注意された件を省略しています*2。そして、以下のようなコメントを加えているのです。『ヤクザ・風俗・都市』81頁11行め〜82頁2行め、別冊宝島スペシャル「伝染る都市伝説」238頁1〜7行め、

 言いがかりだといいながら、一方で暗に「影響」を認めるみたいな口ぶり。おかしな文章で|はあ/り、昭和十五年という年代が記憶違いでなければ、日暮里の少女暴行殺害が「赤マント」*3|のそもそも/の起源だという彼の証言は明らかな誤り。いちいち例はあげないが、資料群はかな|り雄弁に、「赤マ/ント」の噂が流布されはじめたのは昭和十一年前後であることを物語ってお|り、十五年というのはい/かに何でも遅ればせすぎる。*4
 しかし、警察が紙芝居を流言の発生源、|ないしは媒体とみて取締まりに乗り出し、加太がその巻/き添えを食ったのは事実なのだろう。|軍も含めて、当局は「赤マント」の出没にことのほか神経をと/がらせていたことがしのばれる。


 確かに、加太氏の記述、特に警察の対応については、根拠があってこう書いているのではなくて、全くの推測、というか憶測のようです。加太氏の解釈が、事実と区別が付かなくなっているというのは、朝倉氏の指摘する通りでしょう。けれども、前回、朝倉氏が自身の「昭和十一年」説の根拠として挙げていた『現代民話考』の事例が、実は昭和11年(1936)のこととは考えられないと、考証しました。従って、どうにも、「昭和十一年」説を根拠にした朝倉氏の加太氏説批判は弱いのです。何となれば、『現代民話考』の事例の話者・北川氏は、加太氏のいう「昭和十五年の一月頃」に「小学校三年生」だったのですから。そうなるとこの北川氏の証言は、朝倉氏の否定する加太氏説を補強するものとして、むしろ位置付けられそうなのです。
 そうなると朝倉氏が「いちいち」挙げなかった「昭和十一年前後であることを物語って」いる「資料群」というのが気になるところですが、これについては朝倉氏説の土台となった中村氏説の検討に際して触れることになりましょうから、今は触れないで置きます*5
 加太氏の説の是非についても、朝倉氏とは別の根拠を挙げて検討しないといけません。それはまた改めて果たすこととして、ここではひとまず、朝倉氏がもう1つ挙げている資料とその解釈について、先に眺めて置くことにしましょう。(以下続稿)

*1:2016年8月13日追記】「初版」と誤っていたのを訂正した。

*2:他に「日暮里駅近く」が「日暮里近く」となっていますが、これは単純に誤脱でしょう。

*3:別冊宝島スペシャルは鍵括弧閉じ半角。

*4:別冊宝島スペシャルは段落替えせず続ける。

*5:結論だけ先取りして置くと、このデマとは殆ど関係がないと思われる。