昨日の続き。
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同級生からの電話(16頁〜24頁6行め)は、「もしも牧野君? 川端です。泰明小学校のときの川端よ。‥‥」と始まっています。牧野氏の発言は全く記録されておりません。すなわち、川端氏の発言を相槌に至るまで細大漏らさず記録することで、会話相手である牧野氏の反応を類推させる、という手法なのです。これが、なかなかにリアルで、じかに55歳のオジさんのお喋りを聞かされているような気分になってくるのです。
彼らは「昭和十五年」の「三月」に「卒業」しているので、入学は昭和9年(1934)4月、昭和2年度の生れになります。『東京百景』の奥付の上部にある「小沢信男(おざわ・のぶお)」の紹介は「一九二七年、東京・銀座生まれ。/泰明小学校、都立六中をへて、日/本大学芸術学部卒業。‥‥」に始まっています。すなわち牧野氏たちと小沢氏は同学年なので、やはりこの牧野氏は小沢氏の体験を色濃く反映した人物のように、というか小沢氏その人のように、思えるのです。
川端氏は「おやじの遺した店のあとにビルぶっ建てて、大家になって」その「社長兼ビル管理人」になっているのですが、同級生のやっている菊岡医院の待合室で「週刊アダルト自身」を偶然見付けて、「こういう事件は、やっぱりまずわれわれに訊ねてくるのがスジじゃないの」とばかりに、菊岡氏と手分けして菊岡医院を掛り付けにしている同級生たちに聞いてみた結果を、牧野氏に伝えて来たのでした。
当の川端氏は「赤マント」のことは「まったく覚えがない」と言うのです。菊岡氏は知っていて「あんなに騒いだじゃないかと言う」のですが、川端氏にとっては「そりゃ、あずき婆ァのこと」なのでした。この記憶の食い違いが、今も交流のある同級生たちへの徹底調査へと発展するのですが、結果は「米本君と僕」が「あずき婆ァ派」で「中沢君と千谷君と菊岡君」そして牧野氏が「赤マント派」、そして「子供のときは優等生で、こういうくだらないことからは超越してた」という「矢代君は、そりゃ黄金バットのことかいなんちゃって、両方ともご存じなかった」ということになりました。そしてこのアンケートの結果を次のように纏めます。17頁1〜2行め、
‥‥。おなじ教室で勉強して、/おなじ町で遊んでて、どうしてこう、ばらばらな記憶になるんだろうね。人間の記憶っておもしろいね。
これなど実際に同級生たちに聞き取り調査をしての感想のように思えるのですが、どうでしょうか。――赤マントとあずき婆ァを両方記憶している者はおらず、「赤マント派」の中でも細かい違いが存する訳ですが、川端氏はあずき婆ァを知らない牧野氏にその説明をします。17頁3〜8行め、
あずき婆ァというのはだねえ、こんな大きな声で言うのは憚るけれども、女の子が便所でオシッコし/ている隙に、どこからか忽然と現れて、お尻から血を吸いとるんだそうです。……だから、それはあず/き婆ァの仕業なんだよ。学校の二階の、校長室と貴賓室が並んでる、昼なお暗い廊下があるでしょう。/あの向かいの女子便所にでたんですよ、あずき婆ァが。たしか二組の、そう、男女組のほうから伝わっ/てきたんだ。それで一組の男の僕らもふるえあがって、いよいよ校長室界隈には寄りつかなくなっちゃ/った。三組の女連中は、なおさらそうだったんじゃないかな。
この便所は昭和4年(1929)6月落成の「鉄筋ビルの中の水洗便所」なのですが、「……だから、それはあずき婆ァの仕業なんだよ」というのは、前回確認した「週刊アダルト自身」の2度めの投稿で牧野氏が示した「赤マントは強烈なエロ・グロ」だ、という、アレでしょう。
さて、川端氏は「あずき婆ァ」の噂のあったことが嘘でない証拠として17頁9〜20行め、「講堂」の「真下の雨天体操場」で騒いで、翌日「雨天体操場に放課後まで立たされ」たときに、「例の便所は校舎の南端*1で、雨天体操場は北の端」なのに「暗がりからあずき婆ァがでてきそうで‥‥おっかなくて泣きだしちゃった」という記憶を語ります。
ついで、17頁21行め〜18頁13行め、「あずき婆ァ」の「騒ぎの所以」として、「性教育欠如の弊害」が生んだ、過剰な「初潮」への「驚きがこんな噂を生んだ元」との解釈を、「ドクター菊岡」の見解を援用しつつ示します。「女の元服だといって、昔から赤飯を炊く習わし」から、すなわち「お赤飯ものだからあずき婆ァ」という発想なのだというのです。
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小豆婆について、私は何の発言の用意もありませんが、川端氏は赤マントは記憶しておらず、あずき婆ァの亜種のように捉えていますので、少し細かく確認して置きました。これから赤マントについて、いよいよ牧野氏の記憶と摺り合せつつ、やはりあずき婆ァと絡めながら、確認して行くことになるのです。(以下続稿)
*1:ルビ「はし」。