昨日の続き。
電話口での話題はいよいよ赤マント(18頁14行め〜23頁2行め)に移ります。ここまでは川端氏がほぼ一方的に喋っていたのでしたが、ここからは、牧野氏も口を挟んで漸く会話らしくなります。尤も、牧野氏の発言は記録されていないので、川端氏の反応から推測するよりないのですけれども。18頁14〜18行め、
赤マントというのは、このあずき婆ァのイメージを、どこかで横取りしてますね。中沢君は、貴賓室/の前の便所にでたのが赤マントで、学校中がひっくりかえる騒ぎだったじゃないかと言ってきかないん/だけれど、ここらでもう混線してるんだ。千谷君が言うのには、赤マントは公衆便所が専門だったそう/だ。学習塾が京橋のむこうにあって、だから行き帰りに、あの橋の袂の便所の前をキャアと叫んで走り/ぬけたではないかと。……思いだしたかい。
川端氏はこんなふうに切り出して、その塾の思い出を一くさり語った後、「日が暮れてから」塾に「手提げで通った連中が、公衆便所を遠巻きにして、キャアなんて言ってたわけだ。つまり塾にいってた連中が、赤マント派か。というと、あながちそうでもないんですな。米本君は、千谷君と家も近いし、塾も、風呂屋も、みんな一緒だったのに、あずき婆ァ派なんだからね。」と言って、さらに「米ちゃんは子供のときから落ち着いていて、根が大まじめ*1」で「誰からも信用のある」からと、さりげなくあずき婆ァ派の補強をするのです。そして、19頁21行め〜20頁5行め、川端氏と菊岡氏の見解が示されます。
そこで僕が思うには、つまり、建物の中に現れるのがあずき婆ァで、戸外に出没するのが赤マントだ。/ところが、菊岡君のお診立てでは、この二つは質的に違うというんだよ。第一に、あずき婆ァに吸われ/ると、女の子はメンスになるのでしょう。しかるに赤マントときたら、メンスの女をみつけて吸うんだ/ね。……うん、なるほど、だ。ドクターだけのことはあらぁ。*2
赤マントは、結局ただ女のケツを追いまわしただけでしょう。怪人のくせに、人間に及ぼすなんの神/通力もないんだからね。‥‥
それから川端氏は、何故「こんなエゲツないものに、いまさら興味をもつ」のか、と尋ねるのですが、この話題は次のような按配で立ち消えになってしまいます。20頁12〜15行め、
ハンセン? ……ああ、戦争反対か。え、赤マントが? ちょっと待てよ。そう飛躍しないでよ。び/っくりして、また肝臓にひびいちゃうよ。
いや伺いますよ。オカしいとは言わないよ。ちょっと笑っただけですよ。言わないの。そう。じゃ、/それはまたいつかゆっくり伺うとして、いったいおたくのほうから、僕らにご質問はないの?
「肝臓」というのは、実は川端氏が聞き取り調査をした同級生たちは、みな菊岡医院に掛かっている「肝臓仲間」なのでした。それはともかく、ここではっとさせられるのは「ハンセン」です。この「わたしの赤マント」では、ここ以外では全く匂わせていないのですが、10月26日付(5)で見た、北杜夫『楡家の人びと』には「「赤マント」と呼ばれる癩病患者の怪物」とありました。
ここで牧野氏は、噂の広まった時期について質問したようです。尤も川端氏は「赤マント騒ぎを知らない」ので、あずき婆ァについて、ですが。20頁16行め〜21頁2行め、
あずき婆ァがでた時期ねぇ。四年生のような気もするし、六年生だったかもしれないし、意外にはっ/きりしないんです。四十ナン年も前のことだもの、一年や二年のズレぐらいカタいこと言うなと、記憶/の奴がヒラキなおっちゃってるのよ。雨天体操場の一件がありながら。
昭和十五年ということはない。それはありませんよ。だってこの年の三月に、僕らは卒業してるもの。/四月からは上の学校に進んで、みんなばらばらになっちゃった。あの前後は、受験だの、卒業写真だの、/螢の光だのと気忙しいことがたてこんでいたはずだもの。だから赤マント騒ぎがこの時分なら、僕に覚/えがないのもふしぎじゃない。おたくらが覚えているのがふしぎなくらいだ。
あずき婆ァは、やはり五、六年生の頃だろうね。‥‥
五年生として昭和13年度。六年生は昭和14年度、しかしそれは昭和14年(1939)のうちで、昭和15年(1940)に入ってからではないというのです。当然、赤マントも昭和15年(1940)に入ってからではない、という訳です。(以下続稿)