瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(11)

 もっとあっさりと済ませる予定だったのですが、泥縄式にやっているのでついネチネチとやらかしてしまいまして、漸く赤マントの時期についての確認になります。21頁13行め〜22頁3行め、

 赤マントは、たぶん、あずき婆ァの騒ぎのあとに、つづいて来たんでしょう。だから中沢君のように/一緒くたに記憶している人もいるんだ。なにしろこれは冬場の話ですよ。だって夏の盛りに、赤いマン/トででてくるなんて許せない。昭和十三年でなければ十四年冬のご登場だな。
 推定の根拠はまだありますよ。僕らの時から進学試験に筆記がなくなって、内申書と面接だけになっ/たでしょう。時局柄、受験地獄の弊害をなくす改革だと言って、それが決まったのが昭和十四年の秋で、/その時から放課後の補講がパッタリなくなったから、まったく地獄に仏のような気がして、よく覚えて/る。それきり僕は塾もやめちゃったんだ。あれからもおたくらは未練がましく通ってたんだよね。千谷/君の話で気がついたんだが、寒い冬の夜にも塾に通わにゃならなかった連中の、ウサばらしだったんじ/ゃないの、赤マントは、……
 デマの末路? 判るわけないでしょう。誰からもべつにそのへんの話はでませんでしたな。あずき婆/ァは、どんな末路だったかな。まるで覚えがないなぁ。消える時には、あっというまに消えちゃうんじ/ゃないの。


 まず、「冬場の話」というのは卓見です。川端氏が赤マントを記憶していないという前提に従えば、記憶に全く頼らずにこのような判断を下していることになるのです。これぞ常識人の感覚、という奴でしょうか。ちなみに、あずき婆ァには季節感はなさそうですね。それはともかく、これなどは10月25日付(4)で見た加太こうじ『紙芝居昭和史』に云う、「初夏に大阪」で「デマの原因であるとして」紙芝居が押収・焼却された、とする説への痛烈な批判というべきでしょう。違うかも知れませんが。――既に、昭和15年(1940)という流行時期の点で、加太氏説は牧野氏等には受け容れがたかった訳ですけれども。
 さて、この進学試験については10月26日付(5)で見た北杜夫『楡家の人びと』にも記述があります。第二部第九章、上下2冊の新潮文庫では下巻122頁に「この春から三年生になった楡藍子」とあって、この場面の最後、129頁に「この春から麻布中学校に入学していた弟の周二」とあります。「この春」は昭和15年(1940)春ですから、楡藍子の弟・楡周二は「わたしの赤マント」の牧野氏・川端氏、それから『楡家の人びと』の作者・北杜夫とも同学年なのでした。130頁2行め、

 中学の入学試験にしても、この年から新考査法がとられ、学科試験はなく、内申書と口/頭試問と体力検査だけになった。‥‥


 話を「わたしの赤マント」に戻しますと、それで川端氏は塾を「ちょっと通ってすぐやめ」てしまうのです。それで何をしていたのかというと「紙芝居は皆勤」ということなのでした。それでアレを見なかったかとの牧野氏の質問を受けるのですが、19頁12〜14行め、

 赤マントの紙芝居? それがねえ、そんなに年中見てたわりには、中身は殆ど覚えてないんだ。だか/ら見たのか見ないのかも、なんともいえないけれどもねえ。おたくは? 覚えがないか。そうだな、塾/にいく連中は、時間がくるとそわそわと消えたからね。‥‥


 加太氏の記述はどうにも扱いにくいので保留にしますが、ここで確認して置きたいのは、川端氏の、赤マントは昭和14年度の冬に「塾にいく連中」の「ウサばらし」として発生したのではないか、との推測についてです。これなどは、赤マントの記憶の全くない川端氏らしい「赤マント」過小評価というべきで、そもそも泰明小学校の、塾に通っていた連中が赤マント派の全てだ、と言わんばかりの、自分に見えている範囲で辻褄合わせをして矮小化してしまう、そんな、この手の話にしばしばなされがちな解釈を、川端氏もしている訳です。牧野氏の「お尋ねします」に対する「週刊アダルト自身」の読者の反響からしても、そんなちんまりした話ではないことは明らかなのですが。
 一方の牧野氏はと言えば、こちらは過大評価です。赤マントは確かに大流行した流言蜚語なのですが、牧野氏は記憶の混乱から、これを「ハンセン」に絡んだ“事件”と思い込んでいたのです。つまり赤マントの意義の過大評価が行われているのですが、それは次回、牧野氏の3度めの「週刊アダルト自身」への投稿について確認する際に、見て置くこととします。(以下続稿)