瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(13)

 随分出し惜しみしてしまったようですが、ここで小沢氏が見たと思しき新聞記事を紹介して置きましょう。
 それは、小沢氏が見た可能性を示唆していた讀賣新聞に載っていたのでした。
 昭和十四年二月二十六日(日曜日)付、第二萬二千三百號の「第一夕刊」、当時の夕刊は現在と違って前日に刊行されており日付の次に(二十五日發行)とあります*1。すなわち昭和14年(1939)2月25日の午後の新聞で、2頁のうち(一)面*2、14段組の紙面の11〜12段め、見出しは2段抜きで「デマ取締り/通信社員留置さる」とあります。なお、この頃の新聞は各紙ルビ付活字(付訓活字)で組まれていて、難読の字にルビがなく、主要な音訓が2種以上あるにもルビがなく、清濁の読みのある字の場合は清音ルビしかありません。最後の4行は1字下げでルビなしの活字で組んであり、行間が詰まっています。年齢は2桁めが右寄せ、1桁めは左寄せ。

戰時下の帝都に最近政、財界を攪/亂するごときデマや、王子方面か/ら全市にひろがつた「赤マントせ/むし男」の吸血談など社會不安を/【11段め】釀成する惡質の流言蜚語が盛んに/流布されるので警視廳情報課では/これらのデマの根元を絶つため徹/底的な取締りを行ふことになり廿/五日管下各署へ嚴重な視察内偵方/を通達、一方捜査二課もこれに協/力して去る廿三日來品川區大井倉/田町三三六三某通信社員拵智憲()を留置小林警部が取調べてゐる/が、同人は本月中旬から財界方面/に平沼首相が暗殺されたと觸れ歩/き銀行界に相當衝動を與へたとい/はれる*3
 この種の流言は私利私慾のため/ にするものが多いので警視廳で/
 は同人の背後關係等についても/ 嚴重追及してゐる


 別の新聞にはこの、通信社員留置の報道は見当りませんでした。他に、赤マントの噂が猖獗を極めていたこの時期に、デマを流した容疑者が留置されているとの報道は見当りませんので、小沢氏が見たのはこの記事だろうと思うのです。
 さて、「朝日新聞」縮刷版を2年分通覧した小沢氏は、武漢三鎮陥落・第二次欧州大戦勃発・日独伊三国同盟大政翼賛会と戦時色が強まるにつれて「紙面が軍国主義的統制へ塗りこめられていく様子」を読み取り、こうした民衆に対する締付けが「少年の私の頭のなか」で「赤マント」に結び付き、前回引用したような「記事」の記憶を生み出したのだ、と考えるのです。25頁行め〜26頁行め、

 この時に、たとえば黒色ギャングの記事なんかが、ふいに赤マントに少年の私の頭のなかで結びつい/たとする。そこらから、ありもしない記事を読んだ記憶がはじまった、と考えることもできましょう。
 しかし、これも一推察にすぎません。記憶のファイルに忠実になれば、赤マントの張本人逮捕の記事/を読んだ時の、暗い感動さえ思いだせるような気がします。軍国主義へ一億一心の時代に、一人一心で/そっぽを向いた者がいることの愕き、それも樺太の国境をこえた岡田嘉子とか、議会で反軍演説をした/斎藤隆夫とかの有名人ではなくて、そこらの銀行でソロバンはじいている男がそうだということの、ふ/しぎな感銘。【25頁】
 アカい思想の男が、ひそかに世に送りだした赤マント。恐ろしき吸血鬼。とはいえ当時、日本の若者/たちは赤紙の招集令状一枚で戦場に狩りだされて血を流し、日中の双方の民衆が膏血をしぼられていた/のだから、国家権力こそはつねに最大の吸血鬼でしょう。この時に、赤マント一枚でうら若い娘たちを/片っ端からさらってみせることは、国家権力の仕業を、そっくりナゾることになります。そして子供た/ちに一斉に「赤マントこわい、こわい」を合唱させるのは、そのまま、声なき民の大声にほかならな/かったでしょう。
 とまで少年の私が、当時考えられたはずはありません。しかし考えられる要素はいくらもあって、新/聞記事は、その意識化をあわや促したのではないでしょうか。だから記憶に深く残ったのではないでし/ょうか。


 先に引いた「讀賣新聞」の記事が、これだとするなら、その記事は全く「ありもしない」ものではありませんでした。しかし、その趣旨のかなりの部分、赤紙で若者が戦場に狩り出される時代にアカい行員が赤マントを広めたといった辺りの絶妙な関連付けなどは、恐らく小沢氏による「意識化」の産物であって、もとの記事から読み取れるのは、そんな崇高な理想を掲げた人物の抵抗などではなくて、そもそも赤マントとは何の関係もない、私利私慾に基づいて物騒なデマを流した中年男という、そんな事件だったのです。
 さて、従来「赤マント」の新聞報道については、全く報告されていないようです。私はこの記事を「讀賣新聞」のデータベース「ヨミダス歴史館」で検索して見付けたのですが、当時の「讀賣新聞」にはこれ以外には出ていないようです。
 小沢氏は「こんなデマのニュースなど、やはり時局柄のせなかったのでしょう」と書いています。朝倉氏も、10月24日付(3)で見た『現代民話考』からの引用に続いて、以下のようにコメントしていました。『ヤクザ・風俗・都市』80頁15行め〜81頁3行め、別冊宝島スペシャル「伝染る都市伝説」237頁5〜8行め、

 昭和十一年ごろから全国に広がった「赤マント」についての噂は、そのころはマスメディア|が/「噂」を熱っぽくフォローするなどという状況はなかったので、断片化された資料しか残さ|れていな/い。しかし、そうした資料からも、この流言が後年の「口裂け女」を優に上回る根強|さ、社会的広が/りをもったものだったことが推察される。


 しかしながら、実際には複数の新聞が報じています。断片化された資料しか「残されていない」のではなくて、それなりに報道のあったことがこれまで報告されていなかったのを、記事がないと決め付けただけなのです。
 さて、当時の記事を通覧する限りでは、赤マントには人に「感銘」を与えるような要素はまるでありません。牧野氏のいう「エロ・グロ」かつ、川端氏のいう「エゲツない」だけの噂なのです。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 話を小沢信男「わたしの赤マント」に戻します。牧野氏の3回めの投書はこの「元銀行員氏」の消息について尋ね、もし「ご健在」ならば「写真を撮らしてください。」という写真家らしい希望で締め括られています。しかし、これに対する反響は、もちろんこの小説が掲載された「文藝」誌の読者からも、なかったでしょう。
 「わたしの赤マント」の検討は一応ここまでにします。以下、当時の記事を挙げて見たいのですが、その前に、このたび私がこの調査を思い立つ因になった随筆を、次回、紹介して置こうと思います。(以下続稿)

*1:このことについては、震災翌日の2011年3月12日付「新聞夕刊の日付(1)からしばらく、データベースの欠陥と絡めて述べるつもりだったのだけれども、図書館の開館時間短縮などもあって材料集めが出来なくなって続けられなくなり、そのままになってしまった。出来れば再開したい。

*2:「七版」。

*3:ルビ「せん・てい・きんせい・ざいかい・かく//ぜん/きふけつだん【11段め】ぜう・あくしつ・りう・ひご/ふ・けいし・ぜいはうくわ/ね・た・てつ/てい・くわん・げん・しさつ・てい/そうさ・くわ・けふ/くら/ばう・ゐん・とものり/ち・けいぶ/じゆん・ざいかい/ぬましゆ・あん/ぎん・せうどう・あた/」。