瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(92)

小沢信男「わたしの赤マント」校異(9)
 1月19日付(89)に引いた書換え【83】のうち、記憶している記事が「ありもしない」ものだった場合、何故そのような記憶が生じたのかを推測した箇所は、『東京百景』では「この時に、たとえば黒色ギャングの記事なんかが、ふいに赤マントに少年の私の頭のなかで結びついたとする。」と改められていました(25頁15〜16行め)。
 この「黒色ギャング」ですが、やはりネットの穴になっておりまして、検索しても神戸大学附属図書館「新聞記事文庫」の、「果然・多量の爆藥」という記事東京朝日新聞 1936.5.24(昭和11))がヒットするのみです。そこで小沢氏と同じように昭和14年3月の「朝日新聞縮刷版」を繙いて見ました。
 そうすると巻頭の「昭和十四年三月記事索引」の「司法・警察▽司 法▽」に、

黒色ギヤングに求刑……八二、九四、/一一〇、一八八*1

とありました。まず「縮刷版」82頁、「東京朝日新聞」昭和十四年三月七日(火曜日)付、第一萬九千八號の夕刊、(一)面題字の下に「行發日六」とあるように昭和14年3月6日(月曜日)の午後の新聞で、その(二)面*2左上に4段抜きで大きく明朝体で「轉向も許し難しと/殘虐二見に死罪/〈*3黒の十九名に求刑」との見出しがあります。事件全体について紹介しても面白いでしょうけど、期間も長くなかなか複雑な展開を示しているようですので、今はこの記事から事件の概要について述べた箇所を抜き出すに止めて置きます。

‥‥去る昭和十年十月十/八日神戸市外布引瀧奥の山中で同志/芝原淳藏を裏切者として拷問の上ピ/ストルで射殺した外資金獲得の手段/として豊島區高田本町一、高田農商/銀行及び杉並區馬橋郵便局、目黒區/上目黒郵便局、神戸市駒ケ林郵便局/等の強盗を計畫して失敗に終り或は芝浦製作所爭議に工塲、重役邸をダイナマイトで爆破せんとするなどテロ蜂起を畫策中遂に逮捕/された黒色ギヤング事件の‥‥*4


 これは主犯の大きな写真、それ以外の被告1人1人の写真のある大きな記事ですが、以下は写真等もないベタ記事で「縮刷版」94頁、昭和十四年三月七日(火曜日)付、第一萬九千八號、(十一)面*5の4段めに「黒色ギヤング次回公判八日」、110頁、昭和十四年三月九日(木曜日)付、第一萬九千十號の夕刊、(一)面題字の下に「行發日八」とあるように昭和14年3月8日(水曜日)の午後の新聞で、その(二)面*6の11段めに「黒色ギヤング公判」、188頁、昭和十四年三月十四日(火曜日)付、第一萬九千十五號、(十一)面*7の8段めに「黒色ギヤング最終訊問」とあります。
 小沢氏(及び主人公)の記憶とはかなり違っているのですが、2013年11月3日付(13)に引いたように小沢氏の見たと思しき新聞記事は「讀賣新聞」に載っておりました。ですからもとよりこの黒色ギャング事件の公判記事に基づく記憶違いではないのですけれども、いくら2013年11月2日付(12)に引いた箇所に「記憶は再構成されるものだとしても」と断っているにしても、とてもでないが記事に述べられた黒色ギャング事件の内容は、赤マントに結び付きそうにないのです。
 今、私どもは赤マントが昭和14年(1939)2月の騒動だということを知っています。ですから、以下に述べるような筋を引くことが出来ます。
 小沢氏は「銀行員氏」が赤マントのデマの「幕引きの役を担った」と見ていました。「銀行員氏」の記事が存在しないとしても、何かそれらしい、当時の小沢氏に「幕引き」と感じさせるような記事が、あったと考えていた訳です。そうしたところに「「赤マント」社会学」の記述によって、このデマの「幕引き」がなされた時期は、昭和14年(1939)3月であろうとの見当が付けられるようになりました。そこで、この時期の、それらしい事件として、黒色ギャング事件公判に飛び付いてしまったのではないでしょうか。けれどもこれは、かなり無理がある筋の引き方と思えます。
 この不自然さが問題にならなかったのは、黒色ギャング事件が殆ど記憶されていなかったからでしょう。黒色ギャング事件の何たるかを知らなければ、別に違和感を覚えることもないのです。時期が合っていることも知らぬ読者たちは、何のことかも解らぬままに、とにかく黒色ギャング事件なるものに、赤マントに繋がる何かがあるらしい、と云うまでで、なんとなく納得したようなしないような気分でお終いでしょうから。
 それはともかくとして、これと比較するなら、初稿の「この時に、反体制の人物がいて、厭戦的言動で捕えられる、という小事件が小記事になることは、わりとありえたのではないか。たまたまその一つを少年の私が読んだ時に、なぜかその厭戦的言動とは赤マントのデマだと思い込んだとする。」の方が、デマの内容は「讀賣新聞」によると「厭戦的言動」ではなかったのですが、遥かに無理のない、いえ、ごく自然な推測であると言えましょう。難点は、この直後の「赤マントの張本人逮捕の記事を読んだ」記憶が確かにあるのだ、と強調する箇所とかなり重なって来てしまうことです。けれども、黒色ギャング事件と結び付けるよりか、何倍か宜しい。……というか、事実はほぼこの通りなのでした。
 もちろん、私とて黒色ギャング事件については公判の記事を幾つか眺めただけで、そんな解った口を利けた義理ではないのですが、しかし初稿と比較して改良されているとは言い難いことは、指摘して置きたいのです。
 時期が判明したことで、それを反映しようとして、数々の改稿【13】【50】【58】【66】【75】【76】【78】そして【83】がなされました。それらは巧みになされていますが、最後に突き止めた時期を示そうとしたことで、無理を来してしまったように思えます。――ここまで小沢氏が赤マントの時期をほぼ正確に記憶していて、それを作品にも反映させたものと捉えて来ましたが、これについては若干割り引いて置かねばなりません。と同時に、記憶のみに頼らず文献に当たることの大切さも、強調して置きたいと思います。
 差出がましいことを述べましたが、これを一応の結論として「わたしの赤マント」の初稿・改稿比較は一区切りとします。明日からはまた他のことについて取り上げて行くこととしましょう。(以下続稿)

*1:漢数字は半角。

*2:」とあり。

*3:」は右上、「」は左下。

*4:ルビ「/べ・たき/しばはら・ざう・うらきり・かうもん/くわくとく・だん/のうしやう/ぎん・すぎなみ・いうびんきよく/いんびんきよく・べ・こま・いうびんきよく/とう。しつはい・をは・しばうら・しよさうぎ・じやう・ぢうやくてい・ばくは・ほうき・くわくさく・つひ・たいほ/けん」。

*5:」とあり。

*6:」とあり。

*7:」とあり。