瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(37)

 グラフィックデザイナー粟津潔(1929.2.19〜2009.4.28)は昭和3年度の生れですから、小沢信男「わたしの赤マント」の登場人物たち(及び小沢氏)よりも1学年下です。
 『不思議を眼玉に入れて』では複数の頁を突き合わせて年次の確認をしないといけないので、差当り次の本の215〜210頁「粟津潔 年譜」を参照しました*1

粟津潔 デザインする言葉

粟津潔 デザインする言葉

・粟津デザイン室 編『粟津潔 デザインする言葉』2005年10月3日初版発行・定価1900円・フィルムアート社・221頁・四六判上製本
 この本には、別に赤マントのことは何ともしてありません。念のため。
 215頁2〜3行め「1929年」条に「2月19日、東京都目黒区碑文谷に、父 恵照、母 ハルの長男として生まれる」とあります。碑文谷の辺りは昭和7年(1932)10月1日に東京市に合併されて東京市目黒區となりましたが、粟津氏の生誕時は東京府荏原郡碑衾町でした。『不思議を眼玉に入れて』の10〜14頁「――不思議なイチョウの木の下で」の冒頭では「 ぼくは、東京の目黒向原町*2に生まれました(現在は目黒本町になっ/ています)。‥‥」となっていますが、いづれにせよ江戸時代の武藏國荏原郡碑文谷村の範囲です。
 「粟津潔 年譜」に戻って215頁5〜6行め「1935年」条に「目黒区碑尋常小学校に入学」、7〜9行め「1941年」条に「碑尋常小学校卒業。立正商業学校(定時制)入学。同時に氏家研究所(輪転機、複写/版を作る工場)の給仕となる」とあって、現在の目黒区立碑小学校です。4年生だったのは昭和13年度で、その2月(昭和14年)に「赤マント」のデマが発生しています。
 回想の内容ですが『黄金バット』との融合が見事に表現されています。便所・佝僂・吸血などの暗い要素はありません。実際の赤マントを見た人などいないのですから、各人各様の赤マントの想像があって良い訳です。内容的にまず一番近いと思われるのが11月4日付(14)で見た、岩佐氏が初めて聞いた赤マントの噂、世田谷の小説家Kの言う「赤いマントを着た老人が、ひぐれになると現われて、目星をつけた子供、と云っても主に女の子だが、通り魔のようにさらってゆく、現に、それを見たと云う小学生も沢山あるんだ」との証言で、夕方の人さらいという点が共通しています。粟津氏の回想は夏の夕暮れのように読めますが、やはり昭和14年(1939)2月のことであろうと思うのです。小学4年生にこれを位置せしめたのはかなり正確な記憶であったと言えるでしょう。
 「新聞にも出た」というのは当ブログにて裏付けとなる記事の数々を紹介してきました。今後も続けますが、現在大阪での記事も追跡中です。
 それから「赤マント」が「アカ」だというのは、11月21日付(31)にて大宅氏が指摘していた、中学生や女学生に「多かった」とされる連想で、当時小学生の粟津氏はそんなことは知らないで、後で「人から聞いた」ことになっています。1年年長の「わたしの赤マント」の主人公・牧野次郎は11月2日付(12)及び11月3日付(13)で見たように、「アカい思想の男」が「赤マント」の「流言蜚語をながした」という風に記憶するのですけれども、これもぼんやりとはしておりますが、やはり同じ発想に基づいている訳です。
 最後の「デマ」発生の原因を、加太氏等と同じように「支那事変」や「大東亜戦争を前にした時代」の「不安」に見ています。
 粟津氏の回想はかなり鮮明な像を持っておりますが、実際の新聞記事と突き合わせて尋ねてみたらどうだったか、と思ってしまうのです。実際に昭和14年(1939)2月を体験した人々の証言はいよいよ得るのが難しくなって来ます。身内に記憶している人がいるのであれば、今のうちに聞き取って置かないとそのまま消えてます。聞き取ったところで、どうもしないような話ではありますけれども。……ですから、無理に聞くのではなくて、昔、当人から話して聞かせてくれたようなことがあれば、その確認をして記録を取っても良いのでは、と思うのです*3。(以下続稿)

*1:HP「粟津潔 横断的アーティスト&デザイナー」の「経歴」に、増補されたものが掲載されていますが、やはり「2005年」条で終わっています。

*2:ルビ「むかいはらまち」。

*3:ブログかどこかに発表の上、もし宜しければご一報下さい。なお聞取りに際しては、まずこちらから情報を示さずに語ってもらい、それから同時代資料によって確認を取るのが良かろうかと思います。最初から「正しい」情報を示してしまうと、補正しようとした(しかし補正しきれていない)証言しか得られなくなります。