瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(244)

同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(2)
 標記の記事としては2つめだが、5月3日付(243)の続きと云うよりも昨日の続き、すなわち「G デマの傳播」の引用の続きで、278頁6~11行め、

  赤マント事件 昭和十三年十一月から翌年二月にかけて、帝都の學童を震へ上らせた事件で、/赤マントを着た怪漢が出沒、子供の血を吸ふといふこの流言蜚語を解剖すると、この流言の本源の/江東方面から、交通機關で走行、先づ中央線で小金井に飛び、一方山手線で赤羽と品川に飛び、こ/の三箇所から約四箇月に亘つて全市に擴がつたが、ラヂオ、新聞から小學校長までが大童になつて/防壓に努めた結果、やがて消滅して終ひ、流言は彈壓や暴露には非常に弱いものである事を物語つ/てゐる。


 この説明についての私見は、ナカネくんの2019年4月2日22:04の tweet に掲出されている、下部が切れていて全文を読むことは出来ないものの大体の内容が推察可能な写真を元にして、2019年4月12日付(175)の後半に述べて置きました。すなわち、当ブログで発掘・紹介して来た、昭和14年(1939)当時の新聞・雑誌の記事と合わないことから、疑わしい印象を抱いておったのですが、今回、原本で確認してその印象を強くしたのです。
 本書の説明に従えば、昭和13年(1938)11月に江東方面(深川区本所区)で発生、それが中央線の小金井、駅名で云えば武蔵小金井駅の、当時の東京府北多摩郡小金井町(現、東京都小金井市)そして山手線(現、赤羽線埼京線)の東京市王子区(現、東京都北区)の赤羽や、品川*1に、目下の流行りであるコロナウィルス風に云えばクラスターが発生(!)して、そこから4ヶ月かかって東京市全域に広まったが、昭和14年(1939)2月にラジオ・新聞、それから小学校長が朝礼で訓誡することによって消滅させることが出来た、と云うことになります。
 しかしながら、当時の新聞を見る限りでは昭和14年2月中旬よりも前に、こうした流言が行われていたと思われないのです。報道され始めて数日でラジオ放送での注意、学校長の訓誡が行われるほどの、爆発的な拡まり方を示し、下旬にほぼ終熄したようです。
 それに、2019年4月12日付(175)にも書いたことですが、同盟通信社調査部だけがどうして、流言の発生源や展開を俯瞰的に捉え、このように断定的に述べることが出来たのでしょうか。――しかし、この「G デマの傳播」の項を初めから読むことで、どうやら、本書では流言・デマの伝播を「走行説」で説明しようとして、このような他には見られない特殊な説を唱えているらしいことが解りました。
 すなわち、昨日見た「犬と弁当」の図式に当て嵌めて、どの程度の材料があったのか分かりませんが、東で発生したものが、西と北と南に「走行」して、そこから「次第に浸潤して行」って「全市に拡がった」としている訳です。しかしながら、リアルタイムで確かめて行った訳ではないでしょうから、本当に小金井と赤羽と品川にクラスターが出来たものだか、結局、同盟通信社調査部の記者周辺で「走行説」に当て嵌めて考えると、この3箇所が早かった(らしい)と云う程度の話にしかならないのではないか、と思われるのです。とにかく、もっと根拠となる情報を示してもらわないことには、当時の新聞記事と矛盾するこの記述の方に信憑性を認めることは、相当難しいと云わざるを得ません*2
 そこで、同盟通信社調査部員の住所に注目して見ようと思ったのですが、5月6日付「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(03)」及び5月9日付「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(06)」・5月10日付「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(07)」に見たように、調査部長の内海朝次郎が、昭和13年(1938)11月から昭和18年(1943)11月まで大森区馬込町に住んでいたことが分かっただけです。この項、内海氏の執筆ではないかも知れませんが、もし内海氏の執筆であれば、11月に上京したまさにその時に江東方面在住の部員もしくは親しい社員から近頃近所で流行っている妙な噂として聞かされて、以後注意していたと云う筋も引けそうですけれども――。
 但し、昭和13年11月、江東地区が本源であったとする説明に全く裏付けになりそうな材料がないのかと云うと、5月1日付(241)に引いた、森川直司『裏町の唄』の「赤マント」が、挙げられるかも知れません。
 尤も、森川氏の説明は昭和13年ではなくて昭和10年(1935)か昭和11年(1936)の晩秋に、赤マントが深川一帯に広まったらしく読めるのですけれども、本書の説が正しいとすると実は昭和13年11月、森川氏が東京市深川区元加賀小学校6年生のときのことで、4月30日付(240)に見た「おばけ」騒ぎは赤マントより前のことを記憶違いしていたことになりそうです。
 しかしながら、やはり、東京での赤マント流言を昭和14年(1939)2月中旬~下旬とする当時の新聞・雑誌の記事を覆すだけの説得力を持つには、本書の説は傍証に乏しいと云わざるを得ません。資料漁りを再開出来る機会を待って、色々確認したいと思っています。(以下続稿)

*1:品川駅は東京市芝区(現、港区)の南端にあって、東京市品川区の品川宿(現、東京都品川区北品川・南品川)とは少々ズレておりますが、大体この辺りと云う見当で良いのでしょう。

*2:5月17日追記5月15日付「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(11)」に引いた、続いて取り上げられている「目なし達磨」と「銭洗弁財天」のような長期にわたる迷信・流行神よりも、むしろ1年半前に大流行したデマとして「赤マント事件」の方を詳細に分析すべきだったと思うのですが、これだけでは、――「放射説」を否定するために、わざとこのような図式を示したのではないか、と思われるのです。誰もが知っている最近の出来事だから詳細を省略した、と云う可能性もありますが、これだけ1年半前の新聞報道と齟齬を来していては、やはり意図があって(もしくは先入主があって)現象を素直に捉えられなかった、と云う疑いを濃くせざるを得ません。