・森川直司『裏町の唄』の「赤マント」(3)
昨日の続きで、赤マント流言の内容について。
「女ばかりか子供も男も殺されたとか」と云う被害者の範囲ですが、これについては差当り2018年9月3日付(161)に引いた「經濟雜誌ダイヤモンド」昭和14年3月1日号の近藤操「赤マント事件の示唆」を挙げて置きましょう。もうそろそろこれまでに挙げた記事を総合的に分析しようと思っています。それから「赤マントのほかに黒マントというのも出たとか」については、2013年11月28日付「赤いマント(038)」に引いた「報知新聞」及び、2013年11月29日付「赤いマント(039)」に引いた「都新聞」の、昭和14年2月24日夕刊(25日付)記事に見える、滝野川区(現、北区)田端新町で婦女子を狙って金銭を奪っていた「白線入学生帽黒マント」がそれに当たるのかも知れません。但し捕まったのは赤マント流言が猖獗を極めていた24日未明ですが、この黒マントは1月から2月17日まで5件の犯行を自供しております。しかし印象としては「報知新聞」の書き出しにあるように「赤マント恐怖時代これは黒マントの剽盗が捕った」と云うことになったかも知れません。
とにかく、色々な説が出ることで「だんだん話が大きくなっていった」訳です。
次に「青年団が出て警戒しているという」猿江は深川区猿江町(現、江東区猿江)で元加賀小学校の北東、小名木川と大横川が十時型に交差する北東、右上部分に当たります。猿江は東川尋常小学校(現、江東区立東川小学校)の学区で、遠くはありませんが余り交流はなかったでしょう。
実際のところはどうだったのでしょうか、当時猿江に住んでいた人の証言が欲しいところです。なお、森川氏は『裏町の唄』175~178頁【41】「猿江公園」(=『昭和下町人情風景』115~117頁、Ⅱ 下 町【20】)に、猿江恩賜公園にあった「ボート池*1」に「大てい同級生の増田君」と「ときどきボートを漕ぎに行った」ときのことを回想していますが、176頁2~3行め「 千田町を通って、洲崎と錦糸堀の市電の通りへ出て、左に曲って住吉町へ出れば公|園は/すぐだが、家からは三十分以上かかる。*2」とあって、区役所通りを東へ亥之堀橋で大横川を渡り、千田町で市電の通り(四ツ目通り)に出て左(北)へ、小名木川橋を渡ると猿江町です。しかし猿江町には特に何の関わりもなかったようです。
「新聞に」出たと云う「そんなデマで騒いでいるところがあるという記事」ですが、森川氏は「深川一帯」限定と捉えているようですが、前回挙げた「都新聞」を中心に、昭和14年2月下旬の新聞に多くの記事が出ており、もちろん地域差もあったでしょうが東京全市に広まっていると云う扱いでした。もちろん「人が殺されたなどという記事は」出ませんでした。
そのことは2013年11月30日付(040)に引いた「都新聞」昭和14年2月24日付の記事に、警視庁の江副情報課長が述べているところですが、その江副氏の長女が上野高等女學校(現在の上野学園中学校・高等学校)で「きょう朝礼のとき校長の石橋先生が訓示したわ、赤マントなんて言っちゃいけないって……」と証言しているのが、森川氏の「学校でも朝礼のときに校長先生が、赤マントのうわさはウソだとわざわざ言うくらいだった」と重なります。
こうして見て行くと、やはり昭和10年(1935)か11年(1936)に深川だけが「そんなデマで騒いでいる」ようなことがあったのではなくて、やはり昭和14年(1939)2月の赤マント流言のことを述べているのではないか、と思えるのです。江副情報課長も数年前に深川(或いは世田谷)で赤マントの噂が行われていたことがあったとは述べておりません。
或いは、深川区(現、江東区)の北隣、本所区(現、墨田区)の言問警察署では、2013年12月8日付(048)や2013年12月10日付(050)等に見たように、昭和14年2月27日に管轄下の4小学校の6年生の男女級長総勢15名と*3付き添いの教師4名を招いて警察署長以下10名と座談会を開いていることも、江東地区での赤マントもやはり昭和14年に限られるのではないか、と思わせるのです。
なお、森川氏の父ですが、1月16日付「森川直司『裏町の唄』(16)」に引いた「投稿 風便り」op.30「寅さんは生きている」に中学(現高校)卒であることが見え、そして4月29日付「森川直司『裏町の唄』(29)」に取り上げた『裏町の唄』【45】「裏 通 り」に、職業について196頁2~5行め、
新聞記者をしていた父は、ひる頃、時には夕方に出かけて、夜おそく帰ってくるものだ/から、工員や職人が多い朝早い家が多い中で、母が近所の人に「おたくのご商売は何です/か」とよくきかれると父に言うと、父は「ドロボウだといっとけばいいじゃないか」とい/っていた。
とあります。しかし何新聞だか分かりません。赤マント流言の記事を担当しなかったのでしょうか。(以下続稿)