瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(29)

 昨日の続きで、昭和14年(1939)4月号の「中央公論」の、「東京だより」の続き。昨日引いたのが本欄365頁上段12行めまででしたので、13行めから中段20行めまで。くの字点は仮に太字「/\」にして示しました。

『それは、子供は夜、外へ出てはいけませ/んといふことでせう。だけどそんな赤マント/の人が人の血を啜るなんてことはありませ/ん』と母親がいくら説き聞かせてもなか/\/この流説を信じて疑はないのである。そこへ/女學校へ行つてる子も歸つてきて『赤マント/の佝僂? 本當らしいわ、學校でもみんな言/つてたわ。女學校は一年と二年生の血を啜る/んですつて‥‥』といふ。それにしても馬鹿/【本欄365上段】なことを云ひふらすものだと思ひながら、會/社へ行つてこの話をすると『いや、俺の家の/子もそんな事を云つてた』『僕んちもそれで/困つてるんだ』といふ話で、筆者の近所だけ/の局部的な流言ではないらしいのだ。それか/ら一兩日するとラヂオのニュースの時間に、/警視廳公示事項で『最近帝都の小學校や女學/校で赤マントの佝僂男の怪談が流布してるさ/うだが、そんな事は絶對にないから、家庭で/も學校でもそんな噂話をお互ひにさせぬやう/にしてもらひたい。もしかゝる説を流布して/歩く者があつたら嚴重に取締る』と放送まで/する始末だつた。飛んだ世話を燒かせた赤マ/ントだつた。翌日子供が學校から歸つてきて/『やつぱり嘘だつたつてよ』と云つてそれつ/きり忘れてしまつたやうである。それにして/もこんな話が、どうしてどこから始まつたも/のかトント見當がつかない。大宅壯一氏の/「赤マント」社會學でも見ていただかう。
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 当時の具体的な反応を記録している点、岩佐東一郎「赤いマント」に並ぶ貴重な記録と言えるでしょう。
 女学校では「一年と二年生」というのも、昨日述べたように「あずき婆ァ」に絡めて考えられそうですが、面白いのは女学校受験やら卒業準備やらで忙しい小学六年生を飛ばしていることです。
 経過ですが、「ラヂオのニュース」は11月5日付(15)及び11月15日付(25)に引いた新聞記事で見たように2月23日(木曜日)19時からですので「翌日」は2月24日(金曜日)です。放送内容を(大体の見当は付いてはいましたが)示している点が貴重です。
 小学生の娘が噂に怯えて帰って来た日と、筆者が出社した日は同じ日ではないのでしょう。平日に小学生が帰宅する時間に在宅というのは、その勤務形態に拠るのでしょうけど、どんな按配なのか見当が付きません。とにかく前者が20日(月曜日)として後者は21日(火曜日)ということになりましょうか。20日(月曜日)とすれば11月12日付(22)及び11月13日付(23)で見たように警視庁が「市内各小学校宛注意書を送付」した日なので、まだその注意が徹底せぬうちに、週明けの学校で赤マントが話題となり、先生がそれに同調した、ということなのでしょうか。そして「一両日」して23日(木曜日)に放送があって24日(金曜日)には収まった、というのは、ラジオニュースを根拠にした子供の説得に、一定の効果があったということでしょう。但し新聞記事を見る限りでは、ここですんなりと収まったところばかりではなかったようです。(以下続稿)