瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(58)

 昨日の続きで種村季弘「蘆原将軍考」及び八本正幸「怪人二十面相の正体」について。

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 八本氏は、赤マントを「昭和十一年の阿部定事件の直後」の流言だといっていて、昭和11年説なのですけれども、これを種村氏の小学生時代の回想と絡めるのは、序にかえて「蘆原将軍考」を収録する種村氏の著書と同じく「アナクロニズム」です。
 まず、昭和11年(1936)に「赤マント」の噂が全くなかったかどうか、分かりませんが、ここまで紹介してきた昭和14年(1939)当時の資料を見る限り、それ以前の数年に赤マントの流行のあったことは、全く意識されていないのです。断定は出来ませんが「なかった」との作業仮説を立てて検討を進めるべきものと考えます。
 それから、種村氏は昭和8年(1933)3月生です。
KAWADE道の手帖種村季弘 ぼくたちの伯父さん』二〇〇六年一月二〇日初版印刷・二〇〇六年一月三〇日初版印刷・定価1500円・河出書房新社・191頁・A5判並製本

種村季弘 (KAWADE道の手帖)

種村季弘 (KAWADE道の手帖)

 190〜191頁「種村季弘 略年譜」を見るに、その冒頭に

1933年 3月21日、東京市豊島区池袋二丁/目九六三番地に生まれる。父は株屋。
1939年 4月、池袋第二小学校に入学。
1944年 6月、長野県上山田温泉へ集団学/童疎開
1945年 3月、中学入学のための帰京途中、/碓氷峠前にて東京の夜空が真赤に燃えているの/を見る(東京大空襲)。4月、府立第九中学校入/学。‥‥

とあります。すなわち、昭和11年では種村氏は満3歳なので論外、赤マントが大流行した昭和14年(1939)2月も、昭和7年度の生れの種村氏は、小学校入学前なのです。
 ちなみに豊島區池袋2丁目963番地は池袋二業地に近い現在の豊島区池袋3丁目52番地、51番地の御嶽神社の南です。池袋第二小學校は戦後の池袋第五小学校で、現在は大明小学校と統合して、同じ場所に池袋小学校と改称されて残っています。
 さて、種村氏の回想に出てくる重林寺は小学校と同じ豊島區池袋四丁目、小学校の近くにあります。現在の豊島区池袋本町2丁目3番地3号、川越街道(国道254号線)及び首都高速5号池袋線の北、同じ番地の、機関車のある昭和鉄道高等学校の南です。
 種村氏の回想時期の下限は昭和19年(1944)6月ですが、この期間の何処に位置するのか、低学年なのか高学年なのか、それだけでも確かめられないのが残念です。昭和14年2月に大流行した赤マントの直接の流れなのか、それとも蒸し返されたものであったのか。いづれにせよ、流石に同様の大流行には至らなかったようですが、その後も子供たちの間では赤マントはしばしば蒸し返されたもののようなのです。(以下続稿)