瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(63)

 昨日の続きで中島公子『My Lost Childhood』について。

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 赤マントが登場するのはもちろん「坂と赤マント」で、舞台となっている「その坂」は、「電車通りからあがってきたまっすぐな道がゆるやかな勾配とともにしずかにくねりながら「……下」と名のつく日蔭のごみごみした街並み」に通じる道の「頂点の辻」から下っているのですが、電車通りとは市電大塚線の走っていた春日通りで、「……下」は小石川區氷川下町、現在の「千石三」交差点、当時は市電護国寺線の氷川下町停留所附近の低地です。「高名なプロレタリア作家が代表作のモデルにした巨大な印刷工場」は小石川區久堅町(現・文京区小石川4丁目)の共同印刷です。この「坂」が分岐している道は、春日通りから現在の文京区小石川5丁目5番地と4番地の間へ入る道で、当時は小石川區大塚窪町の南端、竹早町に近い場所でした。
 12月9日付(49)で参照した、梅田厚 ガイド文/人文社編集部 企画・編集『古地図・現代図で歩く 昭和東京散歩[戦前](古地図ライブラリー別冊)』(2004年1月第1版第1刷発行・定価2,600円・人文社・152+8頁)を見るに、現在この辺りは文京区小石川5丁目なのですが、当時の地図には文京区立第一中学校の位置(8番地)に、光岳寺や智香寺が記載されています。但し光岳寺は昭和9年(1934)に東京府北多摩郡調布町飛田給に移転し昭和19年(1944)に現在地(調布市富士見町1丁目)に移転しているので古い記載内容がそのまま残っただけのようです。智香寺は現在は当時高師寄宿舍のあった場所(東京都文京区大塚3丁目28番地12号)に移転しています。その北にある愛知社は現在の愛知学生会館(7番地)で、当時は愛知社の西を南北に道が通じていました。そして愛知社と三河郷友會寄宿舍の間を下るのですが、三河郷友會寄宿舍は現在の三河郷友会(学生寮、19番地)です。そのまま18番地と17番地の間を抜けて、光岳寺からここまでがほぼ当時の小石川區竹早町の北端を区切る道です。そこから左(北)に折れて大塚窪町と久堅町の間を氷川下町の南端へと下っているのですが、現在の18番地・19番地と20番地の道で最後に現在の大塚3丁目と小石川5丁目の間の湯立坂に抜けるのですが、抜けるところが当時は、現在の20番地の北端を横切って、現在の20番地と31番地の間に抜けていたのでした。
 当時の地図を見ると「頂点の辻」を「ちょうど箱をからげた縄のあまりのようにひょいとわきに投げだされた形で」と描写しているのがよく分かるのですが、そこから「下にのびていた」という舞台の「坂」は、文京区立第一中学校の脇、6番地と7番地・19番地の間に現存しています。湯立坂の、先ほど見た「……下」より高いところに抜けています。
 もう少し舞台を確認して置きましょう。この「坂」を「くだりきると、先年北関東の山麓にできたT大学の前身東京K大学が元の高等師範学校、その上置きであるB大学と呼ばれていたころの広いキャンパスをかこむ高い塀につきあたる」とあります。イニシャルにしているところは「筑波大学の前身東京教育大学」と「(東京)文理科大学」です。筑波大学は昭和43年(1973)10月開学、東京教育大学は昭和53年(1978)3月閉学、12月22日付(62)で見たように、この作品の初出は昭和54年(1979)3月ですから、本当につい「先年」のことです。――湯立坂の北西側がそのキャンパスなので、今は教育の森公園になっています。現在の湯立坂はまっすぐ茗荷谷駅前交番のところで春日通りに抜けていますが、当時は塀を「右手に沿ってまわれば、道はまたしだいに曲折しながら徐々にあがって高師の大きな正門のまえを通り、やがて『女子アパート』という金文字の光る赤煉瓦の十階建【5頁】ての建物で再び大通りに通じる」と描写されているように真っ直ぐではなく、今は教育の森公園内にある筑波大学放送大学の門のところまで折れて、そこから大塚1丁目1番地の中を横切る通りで現在は東側の現・湯立坂との間が公園になっていますが、「大通り」すなわち春日通りに抜けていました。その西側の角(大塚1丁目1番地1号)に同潤會大塚女子アパートがありました。「そこが「B大前」という市電の停留所だった。」というのは市電大塚線の文理科大學前停留所です。
 ここら辺の道具立ては娘の中島京子『小さいおうち』、単行本5〜40頁「第一章 赤い三角屋根の洋館」の9頁7行め〜13頁6行め「3」節、12頁7〜9行め、

 おばさんに連れられて、市電が行ったり来たりする大通りを行くと、大塚坂下町の右手に大きな/立派な護国寺があり、窪町の新緑の中には建ったばかりの文理科大学、なにもかもが立派でしゃん/としていて、角に大塚女子アパートが建っていた。*1

の辺りに、活用されているようにも見えます。平成の世まで残っていた同潤會大塚女子アパートも、今は跡形もありません。……見て置けば良かった。いや、大学生の頃は東京中を歩き回っていたから、見たかも知れないけれども覚えていない。何の知識もなくただ歩いていたので。
 それはともかく、他に名のある建物が出てくるのは、「大通り」=「電車通り」に面した、15頁11行め「M会館と名づけられる高等師範の校友会館のまえをすぎる」場面があります。茗渓会館ですが、これも今は建て替えられています。(以下続稿)

*1:ルビ「さかしたちょう/ごこくじ・くぼまち/」。