瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(19)

・著者の家族と住所(8)
 昨日の引用の続き。258頁5~8行め、

 地下鉄の駅を降りてからの道すがら、一面の焼け跡とそこに早くもバラックが建っているの/を見ていただけに、家の方向に下る坂道を半ばまで歩いてきて、ついこの間のままのように焼/け残っている通りに入ったときは、たとえようもなく懐かしかしさがこみ上げ、遠い昔に去っ/た故郷に戻ってきたように感じた。


 地下鉄の駅は神宮前駅(現、銀座線表参道駅)であろう。「懐かしかしさ」は衍字。12~14行め、

 いきなり家並みが途切れると、私の家も含めて四軒分あったかなりのスペースのそこは一面/が耕され、畑になっていたのだった。立ち枯れようとしているトウモロコシが視界を塞ぎ、カ/ボチャの蔓が地を這っていた。


 そして、259頁4~5行め、

 家は土の上に建っていたのだ、というそのことが、戦前の暮らしでは家を出るとアスファル/トの道だった記憶しかない私には、原点に戻ったような驚きだった。

との感慨を抱くのだが、――庭は土じゃなかったのか、と思うと同時に、記述があっても良さそうな細かい説明がないところ――ここでは、かつての自宅の詳細な描写、例えば間取りの説明のないことが、残念に思われるのである。
 さて、この田口氏が辿った道であるが、現在の港区南青山4丁目15号と17号の間の、浅く細長い300mほどの長さの谷間を下る道で、その西側(高い方)は焼失していたが、東側(低い方)は空襲に遭わなかったのである。強制疎開させられた旧宅の跡地(通りの南側・青山南町5丁目84番地。現、南青山4丁目17号)も、その向かいの父と長姉の仮住まい(通りの北側・青山南町5丁目45番地。現、南青山4丁目15号)も焼失を免れていた。
 この点を、田口氏が284頁「〈参考文献〉(順不同)」13点の10点めに「『炎の夜から焼失地図帖へ』復刻版 東京空襲を記録する会 日地出版株式会社」と挙げている、『コンサイス 東京都35區區分地図帖 戰災燒失區域表示』(昭和二十一年九月 十 日印刷・昭和二十一年九月十五日發行・¥25.00・日本地圖株式會社)*1の拡大(1.41倍)復刻版で確認して置こう。裏表紙見返し下部に元版の奥付、その地図記号を図案化した見開きの右側、下部に復刻版の奥付(1985年3月10日発行・定価2,800円・日地出版株式会社)がある。

コンサイス 東京都35区区分地図帖―戦災焼失区域表示

コンサイス 東京都35区区分地図帖―戦災焼失区域表示

 書影は函で、図書館蔵書には大抵、函が保存されないので私は見ていない。別冊の『炎の夜から焼失地図帖へ』(1985年3月10日発行・日地出版株式会社・23頁中綴じ)に、2~7頁、早乙女勝元「炎の夜から焼失地図帖へ」及び14~15頁、植野録夫(元日本地図株式会社社長)戦災焼失区域表示/東京都35区 区分地図帖の思い出」、22~23頁、編集部「東京三十五区の変遷について」と云った解説、8~13頁、東京空襲を記録する会編「おもな東京空襲一覧」と云った資料が収録されている。20頁下の囲み「●復刻版について」に、原本と復刻版での変更点が纏めてある。
 それはともかくとして、⑥「區布麻.區坂赤」を見るに、青山南町(五)の「45」番地と「84」番地は西側は赤色の網掛(原本では黄色の網掛)の「域區失燒」となっているが東側は焼失を免れたことが分かる。これを見る限り「84」番地には緑色の網掛の「域區開疎」は存在しないかのようだが、4軒程度では縮尺「1:25.000」の地図には表示出来なかったのであろう。
 これは赤坂區青山南町3丁目*2の大半を占める青山墓地青山霊園)と、青山南町5丁目83番地(現、南青山4丁目28番)の立山墓地(青山霊園附属立山墓地)が米軍の目標から外されていたのに伴い、間に挟まれるように青山南町5丁目の南東部が、麻布區笄町の北端(現、港区西麻布2丁目の北端)とともに罹災を免れたからである。
 表参道駅から田口氏の家の方向(南東)は、一部、若干の耐火建築などを除いて、谷間の道の南側の台地の上にあった青山脳病院までが、焼け野原になっていた。立山墓地はこの台地の突端に位置する。
 この辺りは北杜夫『楡家の人びと』とも照合して見たいと思っている。(以下続稿)

*1:定価は奥付下部の二重線の上に「金 貳 拾 五 圓」とあるが、私の見た本は受入時の館員がブックポケットをここに貼付してしまい、その後ブックカードを廃止してブックポケットを外した際に共に剥がれてしまったため読めない。二重線の下、右側にも「Price25yen」とある。

*2:現在の港区南青山2丁目は、青山南町2~4丁目にほぼ重なる。