瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(74)

・中村希明『怪談の心理学』(2)
 中村氏の没年ですが、松尾貴史(1960.5.11生)公式サイト「松尾貴史 敷地」の「不定期・怪しな日記」に「織田非道」という記事がありまして、その中に「故・中村希明先生」と書かれています。日付は「●某月某日」としか示されていないのですが、織田無道(1952.8.8生)の関係先が「家宅捜索されたというニュースをテレビでみる」というのだから平成14年(2002)2月26日のことで、既に故人だったことが分かります。そろそろ開館し始めた図書館に行って調べれば分かるかも知れません。とにかく、ネットでは平成の前半や昭和末年の情報が案外希薄な気がします*1
 そんな訳で、昨日の続き。
 1頁(頁付なし)扉、3〜6頁(頁付なし)「目次」、7〜16頁「はじめに」、17頁「第一章 トイレの怪談の系譜――デマの心理学」の扉(頁付なし)で、「目次」の最後、6頁5行めに「章扉イラスト=国米豊彦」とありました。ちなみにカバー表紙折返しの右下にも「カバーイラスト=国米豊彦」とあります。18頁から本文で67頁12行めまで。69頁「第二章 「こっくりさん」の系譜――筋自動運動と集団催眠」の扉*2で115頁11行めまで。117頁「第三章 新しい学校の怪談「金縛り」――睡眠の異常心理学」の扉で144頁1行めまで。145頁「第四章 感覚遮断がつくる幻覚――密室の異常心理学」の扉で174頁11行めまで。175頁「第五章 口裂け女の系譜――ルーマーの社会病理学」の扉で204頁3行めまで。205頁「終章 社会変動とルーマー」の扉で216頁15行めまで。そして既述の「あとがき」が2頁あって219頁「参考図書(主要なもののみ)」、裏は白紙でその次が奥付、その裏が「『講談社現代新書』の刊行にあたって」、最後に3段組の目録が2頁、1頁めは頁付「J」で「心理・精神医学」、2頁めは頁付「P」で「日本語」と「『本』年間予約購読のご案内」。
 それでは「はじめに」から赤マントに関係する箇所を抜いて置きましょう。中村氏はまず「学校の怪談」ブームについて触れ、東京都のさる区立図書館で最も多く貸し出されている児童書であるとか「講談社の『学校の怪談』は約五十万部、ポプラ社の『学校の怪談シリーズ』は百十万部」との大新聞の報道に触れ、中でも7頁9〜10行め「「トイレのハナコさん」が、もっともポ/ピュラーな平成の「学校の怪談」だそうだ」とここまでが前置きで、ここから赤マントについての1回めの回想になっています。

 しかし、戦中の小学校でも似たような話があった。「赤いマントがいいか、青いマントが/いいか」とトイレの天井から問いかける声がする。うっかり赤マントと答えると天井から/大きな赤マントが降ってきて、頭からスッポリくるまれて鮮血にまみれる、というもので/ある。【7頁】
 当時小学生だった筆者には鮮明な思い出だが、今考えてみると、「赤マントの怪談」は、/ハーバード大学の心理学者オルポートらの研究した戦時下の「恐怖デマ」に属するものだ/ったらしい。
 さる納涼番組でこの話を披露したところ、ろくなちり紙も備えていない頃の小学校に育/った司会の武田鉄矢氏は、同じ話が「赤い紙ヤロカ、白い紙ヤロカ」に変わっていたと語/ってくれた。また、日本が豊かになってきた昭和四十七、八年頃になると、戦中の「赤マ/ント」が「赤いチャンチャンコ」に変わっただけの怪談が流布していたと、筆者の担当す/る学生相談室の若い女子職員が報告してくれた。
 ところが、昭和五十二、三年頃になると、まったく同一ストーリーの「赤いはんてん」/の怪談がなんと女子大生のあいだで大流行するのである。学校のトイレに入るとどこから/か「赤いはんてん着せましょか」という声が聞こえる。調べに入った気の強い婦警さんが/「着せてみなさい!」と答えると、どこからかナイフを持った手が現れて胸を刺された。あ/たりは鮮血が飛び散って“赤い斑点”ができたというギャル好みの語呂合わせのオチに変/わっている。
 こうして、平成の「トイレの怪談」のルーツをたぐっていくと、戦時中の「恐怖デマ」/の系譜が連綿と続いていることがわかる。


 この納涼番組がいつのことだったのか、中村氏がテレビ出演するようになったのは、昭和54年(1979)7月の『怪談の科学』初刊と同年のことと119頁12〜16行めに述べてありますが、とにかく中村氏には赤マントの怪談をテレビで拡散させる機会があったことが注意されます。やはり番組名や時期について、本文中に書きたくないのであれば巻末「参考図書」にでも書き添えて置くなどして欲しかったところです。また「学生相談室」というのは、昨日見た「こだわりアカデミー」にある、平成4年(1992)現在の中村氏の略歴に「現在明治大学法学部心理学講師」とありましたから、明治大学でしょう。
 ところで、昭和52年(1977)53年(1978)頃に「赤いはんてん」が流行したというのは、例の稲川淳二(1947.8.21生)のラジオ放送が関係して来るのでしょう。稲川氏がオールナイトニッポン(第2部)のパーソナリティだったのは、Wikipedia「ニッポン放送の夜ワイドの変遷」に拠れば、昭和51年(1976)4月7日(水)深夜から昭和52年(1977)9月26日(月)深夜ですから、時期は合致しております。けれども「半纏」その他まで拡げてしまうと際限がなくなりますので、今は「マント」を主として、余り脇道には手を出さないで置きます。
 さて、ここに書かれている内容ですが、第一章でもまた繰り返されておりますので、そちらの記述も見た上で確認して行くこととします。(以下続稿)

*1:2020年9月22日追記】「松尾貴史 敷地」は閉鎖されたらしく「不定期・怪しな日記」も閲覧出来なくなっている。いよいよ平成の前半の情報が希薄になって行く――。

*2:扉では鍵括弧は半角だが「目次」では全角。以下も同じ。