瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(267)

・中村希明『怪談の心理学』(19)
 それでは次の節、37頁13行め「「赤い紙ヤロカ、白い紙ヤロカ」」を見て置きましょう。第一章「トイレの怪談の系譜――デマの心理学」の細目は2014年1月5日付(075)に示しましたが、その9節めです。
 14行め~38頁8行め、

 筆者が武田鉄矢氏の口から聞いた「赤い紙」のトイレの怪談は、まだ物資不足の続いて/【37】いた戦後をしのばせる内容だ。
『芸能人年鑑』によると、氏は昭和二十四年の生まれだから、小学校でこの怪談をきいた/のは高度成長が始まる直前で、日本が未だ貧しかった昭和三十四年前後のことになる。
「赤い紙、白い紙」の怪談は『現代民話考』にほぼ全国から収録されている。その中で一/番古い話は昭和十九年で、その前年には「青い紙、赤い紙」として流行しているから、こ/の怪談が「赤マント」からのバリエイションであることがわかる。紙製の風船爆弾が登場/した戦争末期だから、さすがの赤マントの怪人もぜいたくな赤マントが品切れとなり紙で/代用していたようだ。


『芸能人年鑑』と云う本はないので『日本タレント名鑑』のことでしょう。武田鉄矢(1949.4.11生)の語った怪談は、2014年1月4日付(074)に引いた「はじめに」の8頁4~6行めに見えています。
「赤い紙、白い紙」の「一番古い話は昭和十九年」と云うのは8月30日付(260)に引いた、現在の大阪市立木川小学校の例だと思われますが、昭和18年度のことですから昭和18年(1943)とするべきでしょう。これは武田氏の話と呼び掛けの台詞が一致するのですが、中村氏はそこを何ともしていません、そして「その前年」の「青い紙、赤い紙」は、同じく8月30日付(260)に引いた、静岡県女子師範学校の例でしょうがこれも昭和17年度のことですから昭和17年(1942)とすべきだと思います。
 そして前後1行空け・2次下げで38頁9~12行めに、この静岡県岡女師範学校の例を、最後の回答者の1行を省いて引用します。
 前回の最後に、37頁10行めの「当局はどうやらアメリカのスパイであることをつきとめていたらしい」の件を、ほんの冗談として書いたのだと思うのだけれども、中村氏は或いは大真面目に書いているのかも知れない、として置きましたが、この「さすがの赤マントの怪人も」云々の件を読むと、やはりちょっと冗談めかして、流言を擬人化して書いてはいるもののようです。
 また38頁に戻って、例話の引用に続く13行め~39頁7行め、中村氏は戦時中の「粗悪なスフ製品」や戦後の「「ララ物資」の暖かそうなラシャのマント」に触れ、「筆者が上京した昭和三十年代前半まで*1」は「「純毛」に対する信仰が根強く残」っていた、として、8~10行め、

 そんな衣類不足の時代となっては、ぜいたくな純毛のマントをわざわざ血でよごす「赤/マント」の怪談はすっかり現実性を失って、子供心にも受け入れられなくなったのであろ/う。

と「マント」が「紙」に変化した背景を説明するのです。――要するに、戦争末期でも風船爆弾を作るくらい、まだ紙は足りていて、こうした意識が昭和30年代前半まで続くうちに「赤い紙、白い紙」が定着し「ほぼ全国」に広まった、と見ているようです。
 ここで、8月30日付(260)に見た「暗い情動」の節で「ほとんど同様のディテイルの怪談がほぼ全国に分布」としていたのは、やはり「赤いマントの怪談」だけでなく「赤い紙、白い紙」を引っくるめていたことが漸く明らかになりました。しかし「赤い紙、白い紙」の前年に「青い紙、赤い紙」の例があるから、「赤マント、青マント」昭和10年長野県、昭和14年京城昭和15年福岡県→「青い紙、赤い紙」昭和17年静岡県「赤い紙、白い紙」昭和18年大阪府、と変化したと云う筋の引き方は単純過ぎて吃驚させられます。確かに、他の並べ方よりも蓋然性は高いでしょうけれども。
 なお、この「紙」と「マント」の先後の問題については、日本の現代伝説『魔女の伝言板の三原幸久「III トイレ」にも論じられていますが、三原氏の説は2014年2月2日付(102)に検討したように、サンドウィッチマン富澤たけし(1974.4.30生)にボケでなく突っ込んで欲しいレベルのもので、この『日本の現代伝説』シリーズの1冊め『ピアスの白い糸』207~221頁、池田香代子「解説・現代伝説を語ることばへ向けて」にあるように、218頁17~18行め、メンバー間で「資料や情報/が交換され、それぞれが持ち寄る原稿はきたんのない共同討議に付された」のであれば、何故この三原氏の説明がそのまま通ってしまったのか、私だったら大いに追及するところですが、それとも『日本の現代伝説』のメンバーには三原氏の見解を諒承し得るだけの、根拠となる資料が別に提示されていたのでしょうか。それがあるなら是非とも開示してもらいたいところです。
 それはともかく、中村氏が武田氏と出演した「納涼番組」がいつのことなのか、分からないままですが、或いは2014年1月4日付(074)の最後に言及し、2016年1月15日付「赤い半纏(1)」以下に検討した、稲川淳二がラジオ番組で広めた「赤い半纏」と同様に、或いは中村氏が語ったことで「赤マント、青マント」の revival が起こっていたかも知れません。起こらなかったかも知れませんが。そして、その当座に赤マント流言体験の募集をしていたら、もう少し当時の証言が集められたのではないか、と思うのです。「民話の手帖」の読者でない、より多様な人々から。(以下続稿)

*1:中村氏の経歴は2014年1月3日付(073)に見たように本書のカバー裏表紙に紹介されていましたが、学部までは九州(か、とにかく東京以外の地方)で、それから上京して慶應義塾大学大学院に進んだもののようです。