瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(260)

・中村希明『怪談の心理学』(12)
 昨日の続き、と云うか2014年1月8日付(078)の続きで、中村氏の描いた赤マント流言の流れを、30頁12行め「暗い情動」の節から順を追って見て行きましょう。
 中村氏はまづ、30頁13行め「 この「赤マント」のルーツを『現代民話考』より考察しよう。」として、14行め~31頁4行め、前後1行空け・1字下げで長野県南安曇郡豊科町(現・安曇野市)の豊科小学校の話を引きます。この話は2014年1月12日付(082)に引いてありますが、中村氏は冒頭の「○」と、回答者(話者)等の1行を省略しています。なお、豊科町は平成17年(2005)10月1日に周辺の町村と合併して安曇野市となっているのですが、廃止の時点で町立の小学校が、豊科北小学校・豊科東小学校・豊科南小学校の3校ありました。このうち、豊科北小学校は昭和30年(1955)に豊科町が併合した南穂高村、豊科東小学校は同じく東筑摩郡上川手村であった場所にあるので、豊科南小学校が、塩原氏が在学した、戦前の豊科町にあった豊科小学校を継承した小学校のようです。但し場所は違っているようです。
 そして31頁5~8行め、

 この昭和十一年ごろの体験談が『現代民話考』に載っている「赤マントの怪談」のもっ/とも古いものである。
 ほとんど同様のディテイルの怪談がほぼ全国に分布している。もっとも新しい「赤マン/トの怪談」は終戦の昭和二十年の体験談として採録されている。

としています。「昭和二十年の体験談」は、豊科小学校の話の1つ前に載っている、2014年1月11日付(081)に引いた話だと思いますが、もちろん、こんな体験を実際にする訳がないので、実際には、昭和20年(1945)2月に転校生に聞かされた話と、それに伴う回答者の想像です。それから「ほとんど同様のディテイルの怪談がほぼ全国に分布している」のは確かにそうなのですが、赤マント・青マントの選択を迫られる話はこの2例のみで、他は「赤い半纏」や、一番多いのは「赤い紙、青い紙」の類なのです。それから、細かいことですが「昭和十一年ごろ」は2014年1月12日付(082)に述べたように、昭和10年(1935)頃、とするべきでしょう。
 従って、31頁9~11行め、

 したがって、この「赤マントの怪談」は日中戦争の前年の昭和十一年から太平洋戦争へ/としだいに戦雲が拡大していく不安な時代に起こった学童間のデマゴーグだったことが明/らかである。

と結論されても、かなり強引な印象を受けてしまいます。ただ「赤い紙」の類話も含めれば、この類の話が中村氏の指摘する時期に広がりを見せていたことは、確かなようです。
 すなわち、『現代民話考』単行本82頁6行め〜87頁13行め「二 赤い紙・青い紙」=文庫版99頁13行め〜105頁14行め「赤い紙・青い紙」15話のうち、2例が戦中まで遡る話なのです。
 8例め(単行本84頁13~17行め、文庫版102頁7~11行め)、引用の要領は2014年1月9日付(079)に同じです。

静岡県岡女師範学校。昭和十五年入学、三年生の頃の話。トイレに入って紙が|なくて困っ/ていると、どこからか、「青い紙がいいか、赤い紙がいいか」という声|が聞えてきたので、「赤/い紙がいい」と答えたら、その人は真赤に染って死んでし|まったという話です。学校での噂で/す。
 回答者・吉田加奈江(東京都在住)


 「三年生」とありますから、吉田氏は昭和17年度、高等小学校(2年)卒業を入学資格とする5年制の本科第一部の生徒だったのでしょう。すなわち、今の高校2年生に当たる学年です。
 次に12例め(単行本85頁16行め~86頁3行め、文庫版103頁13行め~104頁1行め)。

大阪府大阪市立木川小学校。昭和十七年入学、二十四年卒業。二年生の頃の話。小|学校の女便/所にはいると、どこからか「赤い紙やろか、白い紙やろか」という女|の声が聞えてくる。その/【85】とき返事をしなければ何もおこらない。もし返事をしたら、|「赤い紙やろか」のときは下から/お尻を舌でなめられるし、「白い紙やろか」のとき|は下から手でなでられるという。【103】
 話者・同級生、姉。回答者・萬屋秀雄鳥取県在住)


 入学から卒業まで7年間になってしまいますが、何か事情があったのか錯誤なのかは分かりません。萬屋秀雄(1935生)は鳥取大学教育学部教授だった人で、早生れでなければ昭和17年(1942)4月に小学校に入学しているはずで、入学時期は合っています。してみると「二年生」は昭和18年度のことと見て良いでしょう。
 大阪市立木川小学校は大阪市淀川区木川東3丁目7番32号にあって、昭和11年(1936)11月1日に大阪市十三尋常小学校(現在の大阪市立十三小学校)より分離して大阪市木川尋常小学校として開校した、当時としては新しい学校でした。ちなみに「十三」は番号ではなく「じゅうそう」と読む地名で、当時の大阪市東淀川區木川町は、東淀川區十三の東北東に隣接しておりました。萬屋氏が入学したときは大阪市木川国民学校で、卒業前に現在の名称になっております。(以下続稿)