瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(89)

小沢信男「わたしの赤マント」校異(6)
 ここは大幅に書き換えられていますので、段落ごと引用しましょう。共通する箇所を太字にしました。
【83】『文学1983』168頁上段8〜20行め、

 昭和十五年、私は中学一年生の時に、この記事を読んだ/ことになります。こんど調べて気づいたが、この年の新聞/には、銃後思想の取締りとか、スパイを警戒せよとかいう記事が、くりかえし現れています。そして秋には大政翼賛/会が発足し、紀元二千六百年式典がひらかれます。新体制の世の中です。喫茶店でとぐろを巻く程度の不良学生狩りの記事なども、再三あります。この時に、反体制の人物が/いて、厭戦的言動で捕えられる、という小事件が小記事に/なることは、わりとありえたのではないか。たまたまその/一つを少年の私が読んだ時に、なぜかその厭戦的言動とは/赤マントのデマだと思い込んだとする。ここから、無い事を読んだ記憶がはじまった、と考えることもできましょう。


『東京百景』25頁7〜16行め(『コレクション 戦争×文学』14・544頁6〜16行め)

 縮刷版でみる二年間は、昭和十三年秋には武漢三鎮陥落の勇ましい戦勝記事の氾濫があり、翌|十四年/にはナチ・ドイツ軍の近隣諸国への侵略から第二次世界大戦の勃発となり、翌十五年秋に|は日独伊三国/同盟が調印され、大政翼賛会が発足します。紙面が軍国主義的統制に塗りこめられ|てゆく様子がコマ落/としのフィルムをみるようですが、その一方で、双葉山が六十九連勝で敗れ|ているし(十四年一月)。石/川達三「生きている兵隊」の筆禍事件とか、無政府共産党の黒色ギ|ャング事件の公判(十四年三月)な/どの小記事もあるのを、こんど調べて気づきました。銃後思想の取締りとか、スパイを警戒せよとかいう記事も次第に頻出するようになります。新体制の世の中です。喫茶店でとぐろを巻く程度の不良学生狩りの記事などもでてきます。
 この時に、たとえば黒色ギャングの記事なんかが、ふいに赤マントに少年の私の頭のなかで結|びつい/たとする。そこらから、ありもしない記事を読んだ記憶がはじまった、と考えることもできましょう。


 このうち『東京百景』25頁15〜16行め(『コレクション 戦争×文学』14・544頁14〜16行め)の段落の異同については、2013年11月19日付(29)へのすずしろ氏のコメントに、その一部が指摘されています。
 まず前回見た【75】【76】のように、『文学1983』では「昭和十五年」の「一年分」の「縮刷版」を見ていたのでした。但し「同年度」ともあり、ここでも「昭和十五年、私は中学一年生の時に」とあるので、見たのはどうも昭和15年度の「一年分」であるようです。けれども「翌十六年の記事だったのかもしれず」との書き方からは、昭和16年(1941)は見ていないようにも思えて、見たのは昭和15年(1940)4月から12月までのように思えるのです。
 1月14日付(84)の【13】でも見たように、当初、主人公の牧野氏は赤マントを「昭和十三、四年」としていたのですが、「週刊アダルト自身」読者・遠山氏の投書により加太こうじ『紙芝居昭和史』を知ったことで、『文学1983』では昭和14年(1939)以前の可能性を捨ててしまいます。『紙芝居昭和史』の本文は2013年10月25日付(04)に引用しましたが、そこでは赤マントのデマは「昭和十五年の一月頃」に発生したことになっていました。それは同級生の川端氏に「昭和十五年ということはない。」と強く否定されても揺らぐことなく、都立中央図書館でも「昭和十五年」の「朝日新聞縮刷版」しか見なかったのでした。
 一方、昭和14年(1939)3月以前だと判明したことで改稿した『東京百景』では「昭和十三年秋以降の朝日新聞縮刷版二年分」になるのです。これはこれで、川端氏の意見を容れつつ『紙芝居昭和史』の示す時期も念のため、ということで不自然ではありません。
 ちなみに戦前から縮刷版を出していたのは「朝日新聞」のみです。【78】で「朝日新聞だったはずだけれども」と書き換えたのは、赤マントの時期を突き止めた上で載っていないことを確かめた自信が書かしめたものでしょう。『文学1983』の時点では時期も確定させられていなかった、というか誤情報によって間違えていたのでした。
 そして「朝日新聞」縮刷版を見ての感想【83】が述べられるのですが、これについてはこの続きまで見た上で次回、検討したいと思います。(以下続稿)