瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(93)

 小沢信男「わたしの赤マント」を取り上げた「朝日新聞」掲載の、河野多恵子文芸時評」が『文学1983』に再録されていることは、2013年11月21日付(31)に書きました。ここら辺りはvzf12576のブログ「本はねころんで」の2011-07-06「小沢信男著作 113」に、新聞から起こしたものが掲載されています。ここで『文学1983』から、その冒頭部を抜いておきましょう。311頁下段5行めに一回り大きな明朝体で「私の赤マント」と題してあります。実は、目次(頁付なし)2頁では「わたしの赤マント」なのですが、カバー表紙には明朝体横組みで「小沢信男 私の赤マント」、奥付の裏から4頁ある「☆文学選集『文学19xx既刊収録内容日本文芸家協会講談社」の4頁め中段、「■文学1983  定価一九〇〇円*1」でも「私の赤マント  小沢信男」となっております。311頁下段6〜18行め、

 河野多恵子 小沢信男氏の作品を読むのは私には今度が/はじめてなのだが、「わたしの赤マント」(文藝)は鋭いモ/チーフによって今日の現実を巧みにうがった短編である。
 冒頭、週刊誌から牧野次郎様宛ての、誌上「伝言板」用/の原稿依頼状が登場する。それに応じた写真家牧野次郎の/掲載された寄稿文が次にあるのだが、この赤マントの騒ぎ/は実際にあったことだった。<日中戦争の最中のころ、東/京の町々に夜な夜な赤マントを着た怪人が現れて、女こど/もを襲うという事件、いや噂がありました。たぶん昭和十/三、四年。私が小学五、六年生の時分です。><そこで、当/時の小学生諸君にお願い。赤マントに関する記憶を何なり/とお聞かせください。>それに対して三人の読者から寄せら/れた、それぞれに興味深い文面が置かれる。


 以下略。
 これについて、vzf12576氏は2011-07-07「小沢信男著作 114」にて、

 この作中には、大阪の人から寄せられた「赤マント」に関する情報があるのですが、河野多恵子さんもこどものころ「赤マント」のことを聞いたりしているのでしょうか。

とコメントしているのですが、『文学1983』i〜ix頁、河野多恵子「まえがき」の方に、触れるところがあります。「文芸時評」での「わたしの赤マント」評全体を要約したものとなっていますので、抜いて置きましょう。vi頁12行め〜醃頁3行め、

 そうした意味では、小沢信男「私の赤マント」もまさしく今日的作品である。〈日中戦争のこ/ろ、東京の町々に夜な夜な赤マントを着た怪人が現れて、女こどもを襲うという事件、いや噂があり/ました。〉この噂は、当時東京ばかりでなく関西の大阪あたりの大都会の小学生たちの間でも展がり、/恐れられていた、実際にあった噂である。作中の牧野氏が、その噂を思いだし、今さらながら関心を/もちはじめたのは、毒も正論も創造的見識も相対化してしまう今日の風潮、そういう風潮づくりによ/る見えない統制の実感の強さであろう。彼は赤マントは一人の男が放った流言蜚語として、三十くら/いの銀行員が逮捕された時の掲載位置まで覚えている。騒ぎの幕引き用でっちあげ犯人だったのか。/普通ならば、まだ健在の可能性の濃いその人物のことを彼は知りたい。彼はその男が真犯人であって/もらいたい夢がある。今日の悲観的現実への抵抗願望がある。真犯人であれば、あの直接の統制きび/しい当時にして、ただの個人の意志と言葉の広い影響力をみごとにかち得たことを証明した男である/からである。

 赤マントについては「文芸時評」よりも具体的になっています。尤もこれだけですと、2013年10月27日付(06)に引用した、作中の(大阪 紀田福子)の返事に従っているだけかも知れませんけれども、この書きぶりですと知らない訳ではなさそうです。ちなみに河野多惠子(1926.4.30生)は小沢氏よりも1学年上です。大阪で赤マントが流行した際には既に小学生ではありませんでした。出来れば河野氏個人の記憶を正確に知りたいところです。他人と全く同じという訳はないので。(以下続稿)

*1:漢数字以下は半角。