瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(104)

・大阪附近の赤マント(1)
 大阪附近での「赤マント」ですが、新聞記事が存在することは早くに気付いていて、2013年11月27日付(37)及び1月8日付(78)でも予告したのですが、なかなか十分な調べが出来ずにおります。とにかく昭和14年(1939)2月東京で始まった流行が、年度を跨いで初夏に大阪附近に流布したもののようです。今までに見ている記事も、東京での流行が大阪に移行したという視点で書かれており、それ以前に同様の流言のあったことに注意していないのは、東京の新聞記事と同じです。従って、三原氏が「小学校」に「入学」した「昭和十二年」とは実は昭和14年(1939)で、何故このような混乱を来したのかは不明ながら、「赤マント」が「昭和十二年」と云っているのもやはり、三原氏が「一年生」であった昭和14年(1939)のことであろうと思われるのです。昭和14年(1939)には大阪でも「警察」を巻き込んだ騒ぎになっているのですが、三原氏の記述の通りその2年前にも同様の騒ぎがあったのなら、その旨、記事にも書かれているはずです。そうでないとすれば、ここはやはり、三原氏の記憶違い(と云うよりむしろ計算違い)と考えた方が穏当だと思うのです。
 本当ならば新聞記事を引用して傍証としたいところなのですが、なかなか通覧する余裕が得られずにいます。そこでここでは、体験者のブログ記事を傍証として挙げて置きたいと思います。
 真島節朗のブログ「反戦塾」の2012年12月20日付「不気味な都市伝説」は、以下のような体験を紹介しています。

‥‥、塾頭は小学生のころ「赤マント」という得体の知れない怪物が、学校のトイレに現れ、子供の血を吸うという都市伝説がはやったことを思い出した。
 先週はどこどこの小学校に現れ、昨日はどこどこ、いよいよここに近づいてきた。現れるのは明日かも知れない、などのうわさがまことしやかに伝播した。塾頭はその翌年転校しているので、昭和14年のことだということがはっきり言える。
 日本軍は中国で釘づけになったまま、ソ連アメリカとも対立が激化し、インフレが進行する一方「国民精神総動員」などで窮乏生活をしいられ、国民の「もやもや」感が鬱積していた時期だ。
 この2年後に太平洋戦争に火がついた。幕末、「空からお札が降ってきた。今日はここ、昨日はどこで……」などの風説が広がり、「いいじゃないか」で乱舞するお伊勢参り(今でいえばデモ行進だ)で街道が溢れた、という事実がある。
 こういった一種の都市伝説は、なにか大きな社会変動の前兆のような気がしないでもない。‥‥


 年の明確な体験談として貴重ですが、しかしこれでは昭和14年(1939)のどの時点なのだか、どの程度確かな記憶なのだか、分かりません。そこで「反戦塾」の「プロフィルを兼ねています」という2007年10月1日付「既著」から、次の真島氏の著書のAmazon詳細ページに進みました。

海と周辺国に向き合う日本人の歴史―飛鳥の将軍・阿倍比羅夫/中世の海と松浦党

海と周辺国に向き合う日本人の歴史―飛鳥の将軍・阿倍比羅夫/中世の海と松浦党

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
真島/節朗
1932年、山口県生まれ。少年時代を兵庫県新潟県で過ごし上京。明治大学商学部卒業、日本石油(株)に入社。企業史、団体史などの編纂・執筆に従事。『海と周辺国に向き合う日本人の歴史』で第1回古代ロマン文学大賞研究部門優秀賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 恐らく兵庫県昭和14年(1939)に「赤マント」の流言を体験しているはずです。ちなみに昭和7年度の生れですと東京の場合、赤マントの流行に遭遇しない学年になってしまいますが、大阪の流行は数ヶ月遅れているので昭和7年度生れが小学校で「赤マント」流行に遭遇した最も下の学年ということになります。なかなか微妙なところですが、ここの違いで「赤マント」との遭遇の按配が違って来ますので、出来るだけ明確にして置きたいと思っている次第です。
 そこで、直接尋ねてみました。「反戦塾」のコメント欄にての真島氏の回答によりますと、真島氏は兵庫県武庫郡大庄村の村立大庄尋常高等小学校に昭和13年(1938)4月に入学しております。すなわち昭和7年(1932)の早生れ=昭和6年度生です。ここで2年生の昭和14年(1939)に「赤マント」を体験、そして昭和15年(1940)に隣の校区の大庄村立第二尋常小学校に転校しています。2013年12月30日付(70)で見た、真島氏と同学年の山中恒(1931.7.20生)の回想がそうでしたが、低学年の頃の記憶は転校などの明確な区切りでもない限り、どうしても曖昧になってしまうようですね。1月7日付(77)及び1月8日付(78)で見た中村希明(1932.3.16生)の体験談も同様でした。ちなみに転校先の学校は昭和14年(1939)開校、昭和16年(1941)4月に国民学校令を受けて「大庄村立大庄第二国民学校」、昭和17年(1942)2月に大庄村が尼崎市編入されたことで「尼崎市立西国民学校」と改称、戦後に現在の「尼崎市立西小学校」に落ち着いています。その後真島氏は、2014年1月7日付「安倍首相→幼稚園生」によると昭和18年(1943)に父の死去に伴い、新潟の出征中の叔父宅に母と転居、昭和19年(1944)4月に新潟で旧制中学に入学したもののようです。
 それにしても、約2ヶ月前の「反戦塾」のコメント欄では、今頃もっと調査を進めている予定だったのですが、全く至らなくて汗顔の至りです。(以下続稿)