・岩崎京子の赤マント(14)
最後に、大人になってから気付いた、【D】知る人の少ない赤マントと云う事実について、述べたところを見て置きましょう。③『現代に生きる妖怪たち』には、これに当たる記述はありません。
①
赤マントはわたしたちにとって、かなり強烈でしたが、おとなになっ/て、いろんな人にきいても、しらない人がおおかったのです。*1
あなたはごぞんじですか、赤マントのこと……。
②52頁3~18行め、
大人になってからふっと思い出して、「赤マントって、今では懐かしい」なんて思って。主人/の妹、私とそんなに違わないんですが、五反田の辺で育って、知らないんです。「へえー、あの/怖い赤マント知らないのー、出なかったのー」って。「そうすると世田谷の片田舎だけの小さい/所に出ただけなのかな」と思って、ちょっとがっかりしてたの。そしたら、最近、宮部みゆきさ/んという売れっ子の作家が座談会で、「家の父が六年生の頃、『赤マントが怖い』って言ってまし/た」って。もう私はやっと赤マントが市民権を得たと思って、安心したんです。
体験した世代であっても覚えていない者がいることは、2013年10月30日付(009)に引いたように、小説ですが銀座の泰明小学校で赤マント流言を体験した小沢信男が「わたしの赤マント」にて述べていました。個人によって、地域によっても濃淡があったでしょうし、忘れてしまう人もいるでしょう。
それはともかく、ここで核心に触れないといけないでしょう。
当ブログで資料を列挙して縷々述べて来たように、東京に赤マント流言が広まったのは、その後ぶり返すようなことはあったでしょうけれども、昭和14年(1939)2月中旬から下旬に掛けてです。
宮部みゆき(1960.12.23)の父は、宮部氏が昭和35年(1960)生ですから小学校を昭和14年(1939)に卒業していておかしくありません。すなわち、森川直司(1927.3.10生)と同じ大正15年度(大正15年・昭和元年・昭和2年)生だと云うことになります。ただ、森川氏の赤マント体験は2019年12月24日付「森川直司『裏町の唄』(01)」に予告しながらまだ検討しないままでいるのですけれども、それが昭和14年のことなのかどうか、少々疑問があるのです。岩崎氏の赤マント体験の検討に続いて森川氏のそれに着手するつもりですけれども、森川氏と同じく深川区の住民であった宮部氏の父は、何年生れなのでしょうか?
岩崎氏の場合も、ここまで見てきた回想に従えば昭和14年ではなく、岩崎氏が小学6年生だった昭和10年度の後半、昭和10年(1935)の晩秋以降と云うことになるのです。
これについてどう考えたら良いかは、既に2018年5月10日付(159)に述べて置きました。
失礼ながら、①記憶違い。その中でも、昭和14年の流行時にはまだ学齢に達していなかった人の場合、②後の名残を大流行した昭和14年のそれと思い込んでいるケースが考えられます。それから、③小規模・地域限定で先行していた噂の存在が、可能性としては考えられるでしょう。
この場合、もちろん②の可能性はありません。
4月16日付(236)に引用した、『紫ババアレストラン』の【B】赤マント流言の内容が、岩崎氏の当時の経験のみに基づいているならば、昭和14年(1939)2月の記憶が、小学6年生の、補習後、男子生徒の嫌がらせに自衛するために集団下校した体験に被さってしまった、すなわち①記憶違いと云うことになると思います。
しかしながら、4月17日付(237)に検討したように、岩崎氏は自分の記憶以外の情報も盛り込んでいるようで、確実に岩崎氏の記憶に基づいていると云えるのは『昔話と絵本』『現代に生きる妖怪たち』にも共通している、女子を襲って血を吸う、と云う点のみになります。
そうすると、③の可能性も考えられる訳です。世田谷区の経堂の辺り限定で、このような噂が大流行の3年ほど前にも行われていたのだ、と。
しかしながら、私としては、恵泉女学園普通部3年生の昭和13年度、昭和14年2月の「赤マント流言」の記憶が、小学6年生のときの「くびつりケヤキ」の記憶と混ざり合った可能性が高い、と思っております。4月9日付(229)に見たように、恵泉女学園は東京都世田谷区船橋5丁目8番1号、経堂駅から世田谷区経堂2丁目と3丁目の間を抜けたところにあります。4月10日付(230)に推測したように、岩崎氏は現在の世田谷区経堂2丁目か3丁目に住んでいたと思われますから、徒歩通学で第二桜尋常小学校(桜丘小学校)よりも近かったかも知れません。すなわち、岩崎氏は小学校から女学校の普通部・高等部まで13年間をほぼ経堂から動かずに過ごしていたので、小学校の思い出と女学校の思い出が混同しやすかったのではないか、と思うのです。(以下続稿)
*1:ルビ「きょうれつ/」。