瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(319)

 小松左京(1931.1.28~2011.7.26)は大阪府大阪市生れで兵庫県西宮市育ち、2019年7月10日付「赤いマント(198)」以来しばらく取り上げた、大阪府大阪市出身の黒田清(1931.2.15~2000.7.23)と同学年なので、自伝的な著作に何か赤マント流言についての記述があるのではないか、と思って、『威風堂々うかれ昭和史』小松左京自伝』などを図書館で眺めて見たのだが、見当たらなかった。

威風堂々うかれ昭和史

威風堂々うかれ昭和史

小松左京自伝―実存を求めて

小松左京自伝―実存を求めて

 赤マント流言については、具体的な回想を遺している人が少ない。その原因は、体験していても回想類を執筆する際に参照した年表類や同年輩の人の回想類に殆ど記述がなかったからであろう。昭和末年以来、一部の年表類に、恐らく2015年4月30日付(144)に取り上げた鷹橋信夫『昭和世相流行語辞典』辺りが切っ掛けになって、「昭和14年(1939)」項に赤マント流言が記載されるようになったのだが、何の説明もなく他の世相語と並べて列挙してあるばかりだったりする。それ以前の年表類には記載がなく、以後に刊行された年表類でも載せていないものが少なくない。こうしたことは、便所や補習、一緒に下校した友達などと関連付けられた思い出でもない限り、回想の記載対象にはなりにくい。時期が特定されなければ尚更である。――6年間同じ学校に通っていると、どうしても曖昧になってしまう。
 しかし、4月5日付(316)及び4月6日付(317)に取り上げた小沢昭一のように小学生時代の思い出の1つとして列挙するなど、余り具体的ではない、何かのついでに持ち出すといった程度の記述がないでもないので、やはりこの世代の著作の点検はやめられないのである。そして、小松氏についても、4月3日付「小松左京『やぶれかぶれ青春記』(6)」まで取り上げた『やぶれかぶれ青春記』に、ささやかではあるが、赤マント流言について言及があるのであった。

※ 改行位置を、①旺文社文庫版「/」②勁文社版「|」④小松左京全集完全版34「\」⑤新潮文庫11022「=」で示した。

 赤マント流言に言及しているのは「わが人生「最高の日」」の章の後半、①136頁1行め②172頁13行め④392頁下段17行め⑤174頁13行めからは、次の「すばらしき〝青春〟の休暇」の章の冒頭を、①142頁6行め②179頁10行め④396頁上段7行め⑤181頁7行め「 白線帽とマントでだいぶ脱線したが、‥‥」と書き出しているように、①②171頁9行め④392頁上段11~12行め「‥‥当時の\旧制高校のシンボルである「白線帽にマント」のスタイル\‥‥」についての説明と雑談になっている。
 すなわち、1行分空けて①136頁1~2行め④392頁下段17~20行め、②172頁13~14行めと⑤174頁13~15行めは(①の1行空白が136頁の冒頭で分かりにくかったせいか)詰めて、

 今でも高校は白線のはいった丸型の帽子がふつうだが、\旧制高校といえば、「金色=夜叉*1」|の間貫/一*2以来「白線帽に釣\り鐘マント」それに、太い鼻緒に朴歯*3の下駄*4がシン=ボル\だった。

の段落で始めて、①140頁3~17行め②176頁14行め~177頁15行め④394頁下段17行め~395頁上段18行め⑤178頁9行め~179頁10行め、

 もっとも、マントというものはなかなかべんりなもので\下宿でしめ出しをくった時=や、無|銭旅行/で野宿しなければ\ならない時など、これにすっぽりくるまって眠れば意=外に\あたたか|【②176】い。――この/大きなマントの中に、美しい「女性」*5\をくるんで歩くと=いうのが一つの理想|だったが、残念なが/\ら、小学校以来の憧*6れの女性はせっかく私が=高校にはいっ\た年に結婚し|てしまった。――同い年で/あったが、当時の\女学生は、女=学校の卒業式場から結婚式場へ、|といった例\【④394】がすくなくなかった。
 だから、女性*7は包みこめなかったが、そのかわり学校の\食堂で、薬罐*8や丼*9などを=包みこ|んでかす/めてくるのには便\利だった。――このマントでかくして食器類を「か=【⑤178】すめる」*10\点に|おいては、神技/に近い腕前をもつ「怪人黒マント」と\いう人物がいて=(*11私たちの子どもの|ころ、怪人「赤マン/ト」*12\という人さらいが出る、という噂*13がたっ=たことがあり、そ\こからそ|の綽名*14を思いついたのだろ/う)*15、彼が食堂で、悠々*16\とまず=い南京米の飯を食いおわり、馬の|ションペンの如*17き\渋茶をのみお/わって、やおら立ち=あがるや、その黒マント\がさっと食卓の|上にひるがえり、そのあとたちまち薬/罐、\湯=呑み、丼、皿、箸*18立て、醤油*19入れのたぐいが、|三つ四つ\と消えうせているのだった。=――私/なぞ、何度やっても、\一回に一つしか持ち出せ|ないのに、この怪人「黒マン=ト」\は、いかなる技術/をもちいるのか、一度そのマントひるが|\えるや、必ず丼、皿小=鉢のたぐいを三つから、多い時は六/\つぐらいもさらえこむことができ|たのだから、ま=るで手品\であった。【②177】

と、この後「食堂のおっさん」の対抗策とそれを上回る「怪人」の神技(と失敗)が語られている。
 さて、小松氏――小松實少年が赤マント流言に接したのは、2014年2月4日付(104)に取り上げた、昭和14年(1939)の恐らく夏休み前、小学2年生のときに現在の尼崎市立西小学校で赤マント流言に接した、真島節朗(1932生)と同時期であったろうと思われる。②「著者年譜(一九三一――一九五四)」に、217頁1~5行め、

昭和十二年(一九三七)六歳
 
 四月、西宮市立安井小学校入学。時節がら、卒業する時には「小学校」が「国民学校」に変わ っていた。
 
昭和十八年(一九四三)十二歳
 
 四月、兵庫県立神戸一中に入学。〝空腹と暴力〟の中学校生活をおくる。

とあって、昭和7年の早生れの真島氏の1学年上、昭和6年(1931)の早生れの小松氏は当時満8歳半、西宮市安井尋常小学校の3年生だった。――もちろん、今の尼崎市域まで達した流言が武庫川を越せなくて、西宮市には遅れて入った可能性なきにしも非ずだけれども。(以下続稿)

*1:ルビ⑤「こんじき=やしゃ」。

*2:ルビ⑤「はざまかんいち」。

*3:ルビ①②④「ほうば」⑤「ほおば」。

*4:ルビ「げた」。

*5:ルビ①②④「メツチエン」⑤「メッチェン」。④鉤括弧閉じ半角。

*6:ルビ「あこが」。

*7:ルビ②④「メツチエン」⑤「メッチェン」。

*8:ルビ「やかん」。

*9:ルビ「どんぶり」。

*10:④鉤括弧半角。

*11:⑤括弧開き半角。

*12:④鉤括弧閉じ半角。

*13:ルビ「うわさ」。

*14:ルビ「あだな」。

*15:②④⑤括弧閉じ半角。

*16:ルビ④「ゆうゆう」。

*17:ルビ⑤「ごと」。

*18:ルビ「はし」。

*19:ルビ②④「しようゆ」⑤「しょうゆ」。