瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(203)

黒田清『そやけど大阪』(6)
 昨日引いた、滝川小学校の卒業生たちが同窓会で語った赤マント流言の内容について、確認して置こう。
 「小学四、五年生のころだったか」の段落が、実は小学3年生のときだったと思われるのだが、黒田氏が実際に接した流言の内容だろう。
 「大阪市立滝川小学校・滝川幼稚園」HP「学校概要>沿革」に拠ると、当時の正式名称は「大阪市立滝川尋常高等小学校」*1で、明治44年(1911)11月条に「現在地(川崎東照宮跡)に移転」とあるから、7月11日付(199)に引いた「何本もの太いつっかえ棒で支えられた」講堂や「当時すでに古びていた」校舎も、移転前後に建てられたとして黒田氏の在学中にはまだ30年くらいしか経っていなかったことになる。講堂の「つっかえ棒」は或いは、昭和12年(1937)に黒田氏が入学する3年前、昭和9年(1934)9月21日の室戸台風によって傾いていたのであろうか。昭和4年(1929)7月条に「西校舎(鉄筋校舎)落成」とあるのが「学校の新館」であろう。それともまた別に「木造モルタル張りの校舎」があったのだろうか。この「新館」がどのような位置付けの「校舎」だったのか、普通教室のある、自分たちが普段過ごしていた校舎なのか、それとも主に特別教室が入っている、たまに行くだけの校舎だったか、気になるところだが、大阪の図書館に出掛けて『滝川校の今昔 ―創立八十周年記念祝典に際し―』『滝川小学校創立100周年記念誌』『わたしたちの滝川』を閲覧しないことには明らかに出来そうにない。大阪大空襲では隣接して現存する造幣局本局(一部施設は罹災)や与力役宅門とともに焼失を免れたようだ。
 「新館の便所に赤マントがいる」と云う便所との関係の深さにも注意されるが、それ以上に「隣の松枝小学校まで来ていて、もうじきこちらへ来る」と云う、迫って来る感じも注意される。これは2014年2月4日付(104)に引いた、大阪府大阪市に隣接する、現在の兵庫県尼崎市で小学2年生のときにこの流言に接した、真島節朗(1932生)のブログ「反戦塾」の2012年12月20日付「不気味な都市伝説」に回想される内容に類似する。そして「松ヶ枝小学校」は滝川小学校と学区を接する、北北西300mほどのところにあった小学校だが、松谷みよ子『現代民話考』に載る、ここの地下室の話を既に類話として2014年1月10日付(80)に紹介して置いた。これは「マントを着た男の人」で「赤マント」とはなっておらず、しかも「昭和十年頃の話」と云うことになっているのだが、黒田氏の回想と並べて見ると、昭和14年の赤マント流言の記憶の断片の可能性を考えても良いように思うのである。そしてこのときに、この話の「話者」である「江角治子」と云う人の在学期間が分からないことがもどかしいのである。「回答者」の久井ひろこ(1927~1983)については2011年9月19日付「『現代の民話・おばけシリーズ』(01)」に確認したように、広島県在住で尾道高等女学校卒業だけれども「大阪市生まれ」、小学校まで大阪にいたとして、早生まれでないとすれば田辺聖子と同じく小学6年生のときに赤マント流言に接したことになる。
 それはともかく、「いろんな説」を列挙した段落は同窓会参加者たちから出たもので、「アメリカのスパイやったんやとか、洋風の子とりやったんやとか、シルクハットかぶってなかった?とか」と洋風なイメージで語られているのは、2014年2月13日付(113)に言及した「大阪朝日新聞」の記事に載る写真*2や紙芝居の内容からは2014年2月17日付(117)にも確認したように分からないが、加太こうじ『紙芝居昭和史』に掲載された挿絵、恐らく加太氏が思い出して描いた、この紙芝居の一場面の記憶*3の信憑性を高めるものと位置付けられるかも知れない。実演を見た可能性も考えたいところなのだけれども。スパイと云うのは7月4日付(192)に見た、田辺聖子『私の大阪八景』にも見えていたが「支那軍のスパイ」だったのでかなり印象が違っていそうだ。それから2013年12月27日付(67)に引いた、昭和16年(1941)らしい東京を舞台にした、中島公子『My Lost Childhood』所収「坂と赤マント」が、小学生の女児に「敵国のスパイ」で「きっと背が高くてシルクハットをかぶっている」赤マントを想像させていることが注意される。
 最後に「珍説」扱いされている「憲兵の奥さんやったんとちゃう?」とはどういうことなのか、しかし一応、赤マントが女性であるとする説の1つとして位置付けることが出来るだろう。
 今回、大阪の赤マント流言について、一応の纏めを示して置くつもりだったが、近々改めて取り組むこととしたい。(以下続稿)

*1:大正14年(1925)4月より。それまでは「大阪市立滝川尋常小学校」。その後、昭和16年(1941)4月に大阪市立滝川国民学校、昭和22年(1947)4月に大阪市立滝川小学校に改称。

*2:当ブログは図版を掲出しないことにしているので言葉で説明。

*3:この挿絵については、2013年12月13日付(53)に検討した。