瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(103)

・日本の現代伝説『魔女の伝言板』(3)
 一昨日からの続き。
 三原氏はこの「III トイレ」の章で、もう1箇所、自身の記憶を持ち出した箇所があります。「赤い紙やろか青い紙やろか」の節(106頁11行め〜109頁8行め)で、やはり4例紹介されていますが、その考察部分です。関連する事項もあるので全文(107頁4〜13行め)を抜いて置きましょう。

 「赤い紙」のハナシは恐らくトイレの怪談では最も古くからあるものではないだろうか。松谷みよ/子『現代民話考 学校』では昭和十五年静岡師範入学の女性の報告がいちばん古いようである。ただ/三原(昭和十二年大阪市立勝山国民学校入学)は一年生の時、真ん中の便所に入るとこの声が聞こえ/ると聞いた経験があるので、既に昭和十年代にはこのハナシが広く小中学校で話されていたのであろ/う。紙の色の組み合わせはいろいろあるが、不可欠なのは「赤い紙」である。もちろん「赤」はあく/まで血の色であり、恐怖を呼び起こすのに十分と考えられるが、さらに初潮体験が背景にあるとも考/えられる。筆者の子供の頃の経験から言えば、性に無知な児童の目に映った経血のついた紙が、何か/惨事が起こったと恐ろしい想像をさせたのかも知れない。京都の小学校の例では同じ「赤青黄」であ/るが、黄色と言えば助かるというのもある。この三色の組み合わせは多いが、常光徹学校の怪談』/にあるようにこれは交通信号からの影響かもしれない。


 三原氏の母校については、大阪市立勝山小学校HP概要 >沿革 Wikipediaの「大阪市立勝山小学校」の項で食い違うところがあります。学校のHPでは昭和14年(1939)4月1日に「大阪市立勝山尋常小学校と改称」したことになっていますが、Wikipediaでは昭和16年(1941)4月1日に「国民学校令により大阪市勝山国民学校に改称」するまで「大阪市鶴橋第五尋常小学校」と称していたように読めます。戦後、昭和22年(1947)4月1日に「大阪市立勝山小学校と改称」とするのは一致しています。いづれにせよ、三原氏が入学した時点ではまだ国民学校ではありませんでした。
 それ以上に問題なのは、三原氏が「昭和十二年‥‥入学」と書いていることです。
 どうやら、三原氏は自分が小学校に入学した年を昭和12年(1937)と思い込んでいたらしいのです。確かに、高等学校を卒業・入学した年、中学校を卒業した年は、ぱっと言えるような気がします。それから小学校を卒業した年も言えそうですが、入学した年となると、日常必要がないせいか、生れた年度+7なのですけれども、すんなりとは出て来ません。
 同様の混乱は、10月24日付(03)に引いた北川幸比古の「小学校三年生の時」にも認められました。けれども、北川氏の場合は『現代民話考 学校』には生年が示されていませんから、気付く人がいなかったのも仕方がないでしょう。しかしながら、三原氏の場合、2月1日付(101)に引いた「編・著者略歴」に「1932年大阪府生」とあったのですから、編集段階で昭和12年(1937)小学校入学の筈がないと指摘するべきでした。
 ちなみに所在地は、現在は大阪府大阪市生野区、当時は大阪府大阪市東成區でした。生野區は昭和18年(1943)4月1日に東成區から分離発足。
 さて、この「赤い紙」の話は、三原氏が「一年生」の昭和14年(1939)のことなのでしょう。それ以前に聞いた可能性はないと言って良いでしょう。
 昨日引いた「赤マント」の記述についても、本当のところはいつなのか、という問題が生じます。すなわち、「昭和十二年入学」が記憶違い(というか勘違い)である以上、「赤マント」が「昭和十二年」というのにも、同様の疑いを差挟まざるを得ません。しかしながら、残念なことにもう本人に確かめることは出来ません。――昭和12年(1937)ではないでしょう。三原氏が小学校に「入学」した昭和14年(1939)のことと見て、まず間違いないと思っています。大阪の新聞記事はまだ十分調査出来ていませんが、次回、若干の根拠を挙げて説明を試みたいと思っています。(以下続稿)