昨日の続きで、東雅夫編のアンソロジー2種の、この体験談に関する「解説」の後半、東氏の評価を見て置きましょう。但しMF文庫ダ・ヴィンチ『私は幽霊を見た』の方は、既にちくま文庫『文藝怪談実話』にて見解を尽くしたこともあって、ごく簡略ですので、まずそちらを見て置きます。361頁15行め〜362頁6行め、昨日の引用の続きで「両者」はもちろん三浦朱門と遠藤周作です。
実は両者は右のアンケートに先立って、『文藝春秋 漫画読本』一九五七年一月号に「幽/霊見参記」と題する体験記を連名で寄稿していたのであった。同篇はすでに『文藝怪談実/話』に収録したので、今回はそれぞれの別バージョンたる二篇を採録した次第である。
このときの体験を契機に、遠藤周作は一九五九年七月から九月にかけて『週刊新潮』に/「周作恐怖譚」を連載(単行本『蜘蛛』として、五九年に新潮社より刊行)、「三つの幽霊」/と後日談たる「私は見た」など、まさしく怪談実話系の先駆というべき一群の作品を手がけ/ることとなる。
さらに柴田錬三郎『日本幽霊譚』に言及し、362頁9〜11行め、
片や芥川賞、片や直木賞を受賞して文壇やマスコミの注目を集める新進気鋭の作家たちが、/相次いでみずからの心霊体験を作品化し、それを契機に怪異探求の雑誌連載をおこなったこ/とは、今日の目から見て、きわめて重要な歴史的意義を有するように思われる。
との位置付けを行っています。
ちくま文庫『文藝怪談実話』の方は、昨日の引用に続けて「文藝春秋 漫画読本」について「初出時のタイトル横に掲げられている編集部の言葉」まで引用して紹介していますが、この辺りは私も原本を見てから触れることにしましょう。ここでは「幽霊見参記」についての東氏の評価を抜いて置きます。390頁14行め〜391頁5行め、
この「幽霊見参記」は、著名な小説家ふたりによって共有された怪異体験談として、史上/まことに貴重な一例となった。怪異の目撃者自身が第三者から間近に目撃されたことで、事/件の客観性は格段に高まるのだから。しかもその体験者が、ともに筆録のエキスパートたる/作家だったのだから鬼に金棒である。
なお、このときの怪異体験は、とりわけ遠藤周作に、その後の作家人生を左右するほどの/深甚な影響をもたらしたと考えられる。「周作恐怖譚」をまとめた単行本『蜘蛛』(一九五/九)は、戦後日本における怪談文芸・怪奇小説再興の魁*1となった名短篇集だが、その後も作/者は晩年にいたるまで、怪談やオカルティズム、怪奇小説への関心を息長く持続深化させ、/長短数多*2の名作を生み出したばかりでなく、ひいては日本ホラー小説大賞の創設(一九九/三)にまでひと役買うという因縁*3を結実させたのだった。
この「共有された怪異体験談」ですが、実は“設定”が食い違っています。体験そのものではありませんが、両者を比較すれば齟齬は一目瞭然で、どちらかが嘘を書いていることになります。これは、事実をその通り書くには差障りがあって、――“配慮”したからだと思われるのですが、その“配慮”の度合いが違っているのです。
恐らく三浦氏の書いたことの方が真相に近く、遠藤氏はそれを持ち前のサービス精神から戯画化しているのです。そうすると“配慮”するという点では口裏合せをしていたものの、細かいところはそれぞれの裁量に任せていた、ということになりましょうか。あまり細かいところまで“設定”を決めていなかった、ということは、却って肝腎な部分――体験そのものの信憑性を高めることになるかも知れません。
では、実はどうだったのだ、という話を先に済ませてしまうと、続ける意欲がなくなってしまいますので、ここでは一応の結論を匂わせるだけにして、しばらくこの、東氏が『文藝怪談実話』391頁6行めに「熱海の幽霊宿」と呼んでいる事件について、当人や周辺の記述を紹介し、さらに“設定”の齟齬へと進んで見ようと考えています。(以下続稿)