瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(142)

 昨日ストックがないと書いたけれども、若干あります。例によって掛け声だけで何もしないのも如何かと思うから、ここに紹介して置きましょう。
・大阪附近の赤マント(11)
 2月14日付(114)の続き。紙芝居「不思議の國」についてはさらに2月18日付(118)まで、それまで集めていた資料をもとにどんなものであったか検討して見ました。
・「教育紙芝居」第二卷第九號(昭和十四年八月廿五日印刷納本・昭和十四年九月一日發行・十五錢・日本教育紙芝居協會・30頁)
 浅岡靖央*1編『*戦時期文化史資料 2* 雑誌『教育紙芝居』・『紙芝居』――1938〜50年』第二巻……『教育紙芝居』1939年7月〜40年6月(2013年12月発行・22,000円・金沢文圃閣・348頁・A5判上製本)65〜98頁に収録。表紙(復刻版65頁)には上部に横組みで「のめたの育教會社化文童兒/居芝紙育教」とある。題は墨字。右側に「〈昭和十四年三月二十四日第三種郵便物認可毎月一回一日發行/昭和十四年八月二十五日印刷納本 昭和十四年九月一日發行〉第二卷第九號」とある。中央左側に縦組みで「九月号」、下部に横組みで「動運居芝紙育教本日全〈特/輯〉」。この特輯「全日本教育紙芝居運動」は2〜20頁(但し15〜20頁は3段組のうち上中2段。復刻版68〜86頁)に11人寄稿のうち7番め、表紙裏(復刻版66頁)下部「目  次」には「赤マント異變 ・ 兼田 祐吉・一〇」頁数の漢数字は半角。
 10頁中段13行め〜11頁下段21行め。1段24行、1行20字。
 10頁(復刻版76頁)見出しはまず本文と同じ大きさで1字下げ「街頭紙芝居から生まれた」とあって行を変えて3字半下げてやや大きくゴシック体「赤マント異變」、次いで4字下げで小さく「城南支部」と添えて標題のゴシック体と同じ大きさの明朝体で8字下げ「兼田 祐吉 」とある。次いで本文、

 七月七日のラヂオが報じ、又八日、九日に/わたつて當大阪地方の數種の新聞に現れた、/【10頁中段】「赤マント異變」
 それが實に紙芝居に關係してゐるといふの/であるから、少しばかり研討して見たい。
    ×  ×  ×
 それは……
 「赤ちやんや學校歸りの小學生に吹き矢を/射つて、血のしたゝるのを吸ふ恐怖の赤マン/ト……」の噂が北大阪の學童間に次第に廣ま/つて、つひに大阪府特高課思想第二係で調査/した結果、意外にもこの「赤マント」の正體/は去月二十日頃から北大阪の裏町を轉々歩い/てゐた街頭紙芝居「不思議の國」から出たこ/とが判明した。
 この「不思議の國」は十六日連續興行の長/篇もので、全體としては孝行少年の生活苦鬪/史なのであるが、餘り長いのと、途中刺戟が/強すぎる場面が多く、又「次は明日!」の營/業心理が禍して、その一部を見た子供たちは/すつかり「赤マント」に脅え、この結果にな/つたものと分り、この紙芝居のおつさんに注/意すると共に、「不思議の國」の實演を禁じ/たと云ふのである。
    ×  ×  ×
 以上の事實によつて何を知らされ、何を教/【10頁下段】へられるであらう?


 続く兼田氏の見解は割愛します。ここに引いた赤マントに関する記述ですが、2月13日付(113)に紹介した「大阪朝日新聞」昭和十四年七月八日付記事を下敷きにしています。すなわち兼田氏は「大阪朝日新聞」を購読していたらしく「大阪毎日新聞」の、2月8日付(108)に紹介した6月30日(七月一日付)夕刊と、2月10日付(110)に紹介した7月1日付朝刊が既に記事にしていたことには気付いていないようです。
 それはともかく、ここで注意したいのは「七月七日のラヂオ」と「八日、九日にわたって当大阪地方の数種の新聞に現れた」の2点です。当時の大阪で他を圧倒していた「大阪毎日新聞」と「大阪朝日新聞」の2紙を確認したことで足れりとしていましたが、当然、当時大阪で刊行されていた他の新聞*2にも記事が出たのでしょう。9日には主要2紙とも、もう記事にしていませんでした。それから7日に大阪でもラジオ放送のあったことは、「大阪毎日新聞」と「大阪朝日新聞」の記事には出ていませんでしたから、これは兼田氏本人が聞くか、或いは聞いた人から伝え聞いたのでしょう。(以下続稿)

*1:「あさおかやすおう」1955生

*2:「英文毎日」「大阪時事新報」「大阪日日新聞」「関西中央新聞」「関西日報」「大正日日新聞」「夕刊大阪新聞」。但し戦前のものは国会図書館にも殆ど所蔵されていない。