瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(115)

 これまで、加太こうじ『紙芝居昭和史』の記述には疑問が表明されて来ました。まず、【A】昭和15年(1940)初夏では赤マント流言の時期から遅れていること、それから【B】1月に谷中・日暮里辺りでの少女暴行殺人事件の記事が見当らないということです。さらに、これは疑問ではありませんが【C】大阪で紙芝居が押収・焼却された、ということについても、従来何らの傍証も示されて来ませんでした。
 『紙芝居昭和史』の記述は2013年10月25日付(04)に引きましたが、1月26日付(96)に言及した旺文社文庫版『紙芝居昭和史』(1979年10月1日初版発行・¥380・306頁)を見ましたので、改めて引いて置きましょう。148頁12行め〜150頁8行め、なお149頁の上部にはイラストがあって下に横組みで「紙芝居『赤マント』」とキャプション、単行本・岩波現代文庫版と違い上下左右を直線に切って僅かに省略、人物とマントには余り差はないが、背景の色はかなり薄くなっています。

 私に関しては昭和十五年の赤マント事件がある。昭和十五年の一月頃だったが、赤マントの人さ/らいが出没して子どもをさらうとか、少女に暴行して殺すとかいうデマが流れた。そして初夏に大/阪の警察が私の作った紙芝居をそのデマの原因であるとして押収して焼却した。このことは画劇会/社に警視庁から通告してきた。田辺常務は私をよんで、今後、デマの原因になるような紙芝居は作/らないでくれと注意した。
 しかし、それはまったくのいいがかりであった。なぜならば、デマは、東京の日暮里駅近くの谷/中墓地に隣接したあたりで、少女が暴行を受けて殺害された事件から発していた。そのとき、その/【148頁】あたりで私が作った赤マントの魔法使いが、街の/靴磨きの少年をさらっていって、魔法使いの弟子/にする物語の紙芝居をやっていた。題名はわすれ/たが、内容は芥川龍之介の『杜子春』を換骨奪胎/したもので、紙芝居屋がある紙芝居としてはもっ/ともまじめで教育的な作品のうちにはいる。杜子/春の仙人に当たるのが赤マントを着てシルクハッ/トをかぶった魔法使いで、杜子春が父と妹を養う/貧しい靴磨きの少年になっているだけだった。そ/の魔法使いが赤マントを着ていることが、現実の/少女暴行事件と結びついてデマの発生になったら/しい。
 紙芝居の絵は東京で使うと横浜から東海道の主/要都市を経て大阪へいく。その絵が移動する順路/と時間が、赤マントの人さらいのデマが流布する/順路と時間にうまく一致していた。そこで、この/紙芝居がデマの原因らしいと、単に画面だけで判/断されたらしい。あるいはデマにピリオドを打つ/【149頁】ために押収したのかもしれないし、警察が手柄をあげるためにデマを紙芝居のせいにして、適当な/証拠としてデッチあげて私の紙芝居を押収したのかもしれない。
 赤マントのデマは、いつ終るかわからない日中戦争のために子どもの世界にすら不安感が生じた/ことと、何かといえば忠君愛国をいわれるので、子どもたちがエロ・グロなどの強い刺激に、抑圧/された気持の捌け口*1を見いだしたために流布されたとも思われる。
 私は赤マント事件で田辺に注意されたのがおもしろくなくて、それからは紙芝居の仕事にあまり/熱心でなくなった。そして、七月には上総一の宮へ親しい知人が避暑のための家を借りたので、同/居させてもらうことになって房州へいくことになった。


 異同は1箇所で、ですからわざわざ引くこともなかったのですが、以前引いた本文に加筆すると混乱しますので別にしました。この異同が加太氏本人によるものかどうか、少し注意して置きたいと思います。
 さて、従来指摘されて来た問題点ですが、私も【A】については、朝倉氏や物集氏とは時期を異にしますが、昭和15年(1940)ではない、ということでは同じ意見でした。【B】については加太氏のいう昭和15年(1940)だけでなく、赤マントが実際に流行する直前の昭和14年(1939)の1月頃も調べてみたのですが、新聞のデータベースで幾つか検索してみた限りでは、見当りませんでした。この辺りのことは1月26日付(96)から1月30日付(100)までの物集高音「赤きマント」が『紙芝居昭和史』を検討した箇所について見て行ったうち、1月28日付(98)にて述べて置きました。そこでも引きましたが大宅壮一「「赤マント」社会学」に「日暮里辺で佝僂の不良が通行の少女にいたずらをしたとか」とありますが、これとても傍証がある訳ではない伝聞で、多分加太氏も同じ事件について「暴行殺人」という訛伝を聞いたのではないか、と思わせるというだけのことです。
 しかしながら、ここに漸く【C】を裏付ける2月13日付(113)大阪朝日新聞」及び2月14日付(114)「大阪毎日新聞」の昭和14年(1939)7月8日付の記事を見出したことによって、確かにこのような事件があったこと、それもこれまで疑問とされて来た【A】時期が、加太氏の云う昭和15年(1940)初夏ではなく昭和14年(1939)6〜7月、すなわち加太氏が時期を1年、記憶違いしていたことがはっきりしました。まさに昭和14年2月の東京での騒動が全国に波及する過程に位置づけられる事件であった訳です。
 もちろん、ほぼこの通りのことがあったとして、記事を見ればすぐ分かることですけれども、問題になるのは【A】時期だけではありません。細々とした違いが指摘されます。それらの細かい検討については、明日に回すこととしましょう。(以下続稿)

*1:ルビ「は」。単行本及び岩波現代文庫版「はけぐち」。